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第12回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~父の死~

『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第十二回


その日も私達は例外なく
蒸し暑い夏の朝を迎えていた。
私はあまりの暑さに夜中二時ごろから
目が覚めてしまっていた。
一週間前に新しい派遣先の仕事が
始まったばかりの頃だったので、
慣れない仕事場に
寝不足で出勤することだけは
避けたいにもかかわらず
寝付けないでいる自分に
焦りを感じていた。
しばらくごそごそとベッドの上で
体勢を変えたりしていたが、
結局寝るのを諦めて
台所へ水を飲みに行った。

私の部屋を出て廊下を挟んだ目の前が
風呂とトイレで、
その廊下の左どん突きが
玄関になっている。
廊下は大人の足で
四、五歩程度の長さしかなく、
右へ進むと台所へ出る。
台所のさらに奥には
和室と洋室の続き間があり、
そこに母と楓がそれぞれベッドを置いて
寝床にしている。
楓の部屋にだけ
エアコンが付いているので、
楓と母の部屋の間にある襖を取り払って、
入眠時の二、三時間だけ
エアコンにタイマーをかけて
稼働させているのだが、
もうすでにタイマーは
切れてしまっていた。

楓の部屋のほうから
ベランダ窓へ近づいて行き、
風通しを良くするために
窓をそっと開けた。
楓は私の立てる物音にも反応せず
常夜灯に照らされながら
小さな寝息を立てて眠っている。
隣の和室で眠っている
母の様子を伺おうと
暗がりの奥を凝視する。
母はこちらに背を向けて寝ているらしく、
丸まった背中の膨らみが
楓の部屋の常夜灯に
薄っすらと照らし出されている。

自分の部屋へ戻る道すがら、
廊下の先にある玄関のドアが視界に入る。
不意に思いついて
そのドアと地面との隙間に
ストッパーを射し込んで半開きにし、
家内の風通しが
成る丈良くなるように配慮した。
玄関扉の上部にはフックが付いていて、
常時ぶら下げている虫よけのプレートが
揺れて扉に当たり乾いた音を立てる。
玄関横に設置された
シューズボックスの上には、
昨日病院へ持っていく予定だった
父の下着類の入った手提げ袋が
置かれている。
扉の隙間からは、
首筋に纏わり付いた熱を
解放していくかのように、
陽射しに蒸される前の
平静な風が吹き込んでくる。

部屋に戻った私は、
ダンボールの中に
詰まれたままになっているCDを
思い出したように漁り始めた。
たぶん「今この時」には
あの曲が似合うと思いついた瞬間から
聴かずには居られなくなる衝動。
あらゆる場面の
気持ちを風景を感覚を記憶を
忘れてしまいそうな何かを、
世界の何処かに居る若しくは居た人が、
既に音楽として表現してくれいる

——誰かの感動を
 操作する側とされる側——

そんなことを想い、
交錯する甘怠い煩悩に混じって、
暗い羨望まで抱くこともある。
取り出した真四角のジャケットは、
モノクロの
レンチキュラーのようになっていて、
誰かが蝋燭(ろうそく)を
両手で掬うように持っているような
手元のアップが描かれている。
ジャケットを持った手の角度を
微妙に動かすと、
描かれている蝋燭の炎が
揺らめいてみえる仕組みだ。
題名もアーティスト名も
そこには書かれておらず、
裏返すと申し訳なさそうに
右下の隅の方に
『Mono Ordinary Rays』という
文字が小さく並んでいる。
Ordinary Raysのアルバムは
この一枚しか持っていない。
自分の扱いが悪いせいで
ヒビの入ってしまった
プラスチックケースをパカッと開けると、
なんの印刷もなされていない
銀色のCDが
丸いディスクホルダーに収まっていて、
そこからパチッと取り出し、
蓋を開けたウォークマンに嵌め込んむ。
有線のヘッドホンを繋げて
両耳を覆う準備をし、
再生ボタンを押した。


Mono

Gazing into space
Losing their grasp
on the state of being real
What comes to mind ?
Fading away like foggy view
Get a body down


地獄へ落ち逝く途中なのか、
天に召される道中なのか。
どちらにしても死を想わせる、
白っぽい霧に紛れて見え隠れする
宙に浮いた横たわる躰——
吐息の多い中性的な声が
ぼんやりとした意味深な歌詞を
なぞり歌う。
キレのある歌声が
曲全体の透明度を上げていく。
そのバックでは欠伸を伴うように
間延びした調子で歌う男の声が
淡く響く——
ブラックホールの奥底から
聞こえてくるかのような
不思議な響きを持つ重低音。
教会のイメージ——
ピアノ音だけだったはずの旋律は
シンセを使った様々な音の打ち込みに
埋もれながら迫り広がっていく。
精神と躰が別々に分離し彷徨い始める、
もしくはそうなるまでの過程のような歌。
永遠の夜明け——

私のイメージするものが
この今と繋がっていく、
細胞間を埋め尽くす組織液のように、
私と世界との間を音楽が満たしていく。
無性に心を奮わせることができることに
感動している。
もしくは、切なさに浸り
逃避したいだけなのかもしれない。


電気を消してカーテンを開けると、
窓の外はもう青白い光を帯びて
目覚め始めていた。
日の出っ切るまでの
儚く淡い時間がもっと長く続けば、
今よりもう少しは
易しく生きられるはずだと
勝手なことを思う。
『Mono』を皮切りに
段ボールに積まれたCDを
取っ替え引っ替え聴き漁っていると、
あっという間に蝉の大合唱とともに
のっぺらぼうな夏の朝へと
切り替わってしまった。
それと同時に
明け方寝ずに起きていたことへの
後悔の念に襲われて、
私の躰は一気に重くなっていった。

この日も母は
朝食を摂っていなかったと思う。
台所で結構な時間鳴っていた電話に
私が出た時、
母は自分のベッドの上で
横になっていた。
私と楓は
窮屈な台所に置かれたテーブルで
パンか何かを食べていた。
ジリジリと執拗に泣き叫ぶ
蝉の音の隙間に蔓延(はびこ)るように、
女子アナの張り切った笑い声が
小さなテレビから垂れ流されている。

電話は父の入院する病院からだった。
受話器の向こうでは中年の女性が、
父が呼吸をしていない
というようなことを
涼やかな調子で説明していた。
台所の片隅に置かれたテレビ画面には、
丁度女子アナが
トランポリンに飛び乗って、
その飛び心地を実況している。
女である私でも
彼女の履いているタイト目な
膝丈ワンピースから覗く白い脚にばかり
目線がいくのだから、
男が見てしまうのを
非難することなどできないよな、
などとぼんやり思いながら、
電話口に立っていた。

父が呼吸をしていないという
言葉の意味を巧く呑み込めずに
生返事をして電話を切ってしまった後に、
ようやく父が死んだのだという事実に
はっとして、
テレビを観ていた楓に向って
そのことを伝えたのだった。

「いつ?今亡くなったの?」

楓が私のほうを振り返って訊ねる。
私は電話台の前で突っ立ったまま
「たぶん」と答えた。

母の居る部屋へ向かうと
母はもう目覚めていたが、
折り畳みベッドの上で
仰向けになったまま
力無げに天井を眺めている。

「今病院から電話があって、
 お父さんが息してないって。
 今朝、病室に行った看護師さんが
 気付いてくれたみたい」

母に向ってそう言い終えると、
彼女は同じ体勢のまま
「そう」と一言呟いた。

「今から楓と病院行ってくるから、
 お母さんは寝てて」

「そう。ありがとう、ごめんね」

「だいじょうぶ?」

天井をぼうっと見つめ続ける母に、
いつものように父のもとへ
下着類を届けにいくかのような調子で、
父の死を確認してくる旨を告げた。
楓は台所で食事を放り出したまま
テレビを見詰めている。

「楓、あんた今日誕生日だよね」

と話し掛けると、
楓は「ほんとそれ」と
短い吐息ととともに言いながら
鼻元で微かに笑った。
派遣先には父が亡くなったので
三日間ほど休むと電話を入れておいた。

身支度を済ませて
玄関でコンバースを履き終えると、
シューズボックスの上に置かれた
手提げ袋を手にとった。
玄関の扉を半分開けかけてから、
今日はこれを持って行く意味が
ないんだと気付いて、
シューズボックスの台へ戻した。
後ろに突っ立っていた楓が、

「うん、いらないよね」

と言って私の戻した手提げ袋に
視線を落とす。
半開きになったドアから、
白けた陽光が楓の顔へ
燦然(さんぜん)と降り注ぐ。
楓は眩しそうに眼を細めたまま、
玄関を占領している私が
退(の)くのを待っている。

正面から光を浴びた楓の顔を
こんなに間近で
見たことのなかった私は
「痩せた?」と唐突に訊ねてみた。
楓は「え?体重変わってないよ」と
上ずった声で答える。
不意打ちを食らったというように
目を見開いて
手で喉元を摩(さす)っている。
目の辺りが私の記憶する楓の顔よりも
なんだか窪んでいる。
そのせいで少し目玉の辺りがぬっと
前へ押し出されたように見える。
漸く私が扉を全開にして
外に出たのを機に、
楓は玄関で靴ベラを使いながら
ベージュ色のパンプスを
ゴソゴソと履き始めた。
俯いた顔が母そっくりだった。


自転車で病院に向かいながら、
私はどうして昨日父のもとへ
着替えを持って行かなかったのだろう
と思った。
父に会ったのはもう一週間も前だ。
どうして私は昨日、
持っていくのは明日にしようと
思ったのだろう。
もう今日はいいや、
こんなことはいつでも出来ると、
思ってしまったのだろう…

私はいつもこうやって、
やろうと思っていたことを
先延ばしにして
後でとんでもない後悔に
襲われるのだ。
何度失敗しても、
どれだけ後悔しても、
例え自分の死を目前にしても——


この日の空は、
自転車を漕ぐ力を奪うぐらいの
過度な青さをしていた。
遠近には雲ひとつ無いがために
空の奥行きは淘汰され、

「空はこれです」

と手をあげて指し示したり
両眼の焦点を合わせたりすることさえ
不可能なほどに、
どこまでも不可解で
浅深(せんしん)な青に覆われていた。
だから「空」と書くのかもしれない
などと思った。


病院につき
詰所で来院した事情を説明すると、
看護師はいつもの病室ではない
別室へ案内してくれた。
招き入れられた部屋には
父の横たわるベッドが
一台置かれていた。
そのベッドが部屋を
占領してしまうほどに
狭い部屋だった。
座る場所も無いので
私と楓はドアを入ったすぐ右横で
突っ立ったまま父を見遣っていた。
その部屋にはもうすでに
医師がいたのか、
それとも私達が部屋に入って来た後から
看護師に促されて入って来たのか
覚えていないが、
当たり前のように白衣姿の医師が
ベッドサイドにある機械を
弄(いじ)っていた。

外の明るさが
閉め切られた窓の磨りガラスから
差し込んでいて、
こちらを振り返った医師の顔は
その光で逆光になり
判然としなかった。

彼は部屋の奥に置かれた
除細動器を両手に握り、
父の開けた胸に当てて、
何度かカウンターショックを行った。
その度に父の胸部は
強制的に宙へ浮き上がり、
一秒後にはベッドへ叩き戻された。

父がそんなふうにして、
生きている時分では在り得ないような
奇妙で唐突な動きをするものだから、
私と楓はどちらからともなく
顔を見合わせて、
ふたりして苦笑いのような
表情を浮かべて見せるのだった。

ようやく諦めたのか、
それとももうこれで
遺族に対する演出は
十分なされたと感じたのか、
はたと除細動器を片し出し、
またこちらを振り向いた。

「お亡くなりですね。
 九時二十八分。朝の時点で
 もうすでに心肺停止の状態でした。
 たぶん、苦しまずに逝かれた
 のではないかなと思いますが…」

医師は恐縮した調子でそう言った。
仕事を終えた彼が
その部屋から出て行った後も、
私たちは突っ立ったまま
父を見詰めていた。楓が

「なんであれしたんだろうね」

と言って除細動器に視線をやった。

「わかんない。
 立場上の保険じゃない?」

と私も除細動器に視線を動かして
そう答えた。

「あれされたせいで、
 なんかおもちゃみたいに
 浮き上がったねお父さん」

「うん。笑ったらだめなのかも
 しれないけど、笑っちゃった」

そう言ってふたりで
クスクスと笑った。
自分たちの父親が死んだというのに、
私たちはなんだか夢心地で、
足元がふわふわとした調子のまま、
いまいち悲しみやら痛みやらが
実感として湧いてこないままでいた。


仄(ほの)暗さで先の
見えなかった何かが
漸く終わったのだなという
勘違いがそうさせたのかもしれない。
父の顔元へ近寄っていき、
ふたりで覗き込んだ。
歯の抜けて包まった顎が
首に落ちてしまっていて、
痩せて見える状態など通り越して
ただ骨のように見えた。

父の死顔を見ながら、
ひと月ほど前に父のもとへ
見舞いに行った日のことを
想い出していた。

その日私は父のために
お好み焼きを作ってきていて、
看護師にバレないように
こっそり父に食べさせたのだった。

「あぁ、紗英ちゃん美味しいわぁ。
 何年ぶりやろなぁ
 こんなん食べたん。
 病院のご飯やと半分も
 食べられんけど、
 これやと全部食べれるで」

父は嬉しそうに
ソースの匂いを漂わせながら
縮こまった顔で
くちゃくちゃと咀嚼していた。

「そりゃよかった。
 また作って来るね」

と私は短く返答すると、
弁当箱を片づけて帰る準備をした。
すると父が、
私の腹の辺りに
見えない視線を投げかけながら、

「紗英っぺや、また来てくれな?」

と、言った。
本人はお道化た調子で
元気よく言ったつもりなのだろうが、
その空笑顔の奥には、
冷えた病室で惚けた顔をして
ラジオを聞き続けている、
憐れな父の顔が見えた気がした。
彼の放ったこの一言によって、
意図せず積み上がってしまった
私達の居ない膨大な「その他の日」を、
病室でひとり過ごす父の様子が
おもむろに目に浮かび、
私は激しく動揺した。

私の目の前には、
放置された孤独を
紛わす術にも恵まれず、
淋しく年老いていった
ひとりの老人がいた。

「またすぐ来るよ。
 だからちゃんと
 ご飯食べて体力つけて」

動揺を悟られまいと
私は父よりも元気よく
笑い飛ばしながら
そう言って病室を後にした。

何日も何年も娘たちに
見舞われることなく
そんなふうに過ごしてきた
父の空白——

徐々に冷え固まっていく父を前にして
そんなことを再度思った。
仄暗く蠢(うごめ)く
得体の知れないものが
自分の胸から膨れ上がってくる。
巨大化したそれは、
まるでブラックホールのように
分別なく私をじわじわと飲み込んでいく。

その様子を天井からぶら下がりながら
観賞していた漆黒の死神が
「ざまあみろ」
とでも言いたげにニタニタと
口角を吊り上げ笑っている。
私はそいつに心臓を
ぎゅっと握りつぶされたような気がして、
漸く胸の奥に
締め付けられるような痛みを
感じたのだった。


【YouTubeで見る】第12回(『ノラら』紗英から見た世界)


【noteで読む】第1回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第11回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第13回(『ノラら』紗英から見た世界)



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