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第1回 (『ノラら』紗英から見た世界 )

すべての芸術は、
絶えず音楽の状態に憧れる。

byウォルターペイター


『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第一回


風の死角に立っていた。
意図せず入り込んだ無風の空間で、
我に返りイヤホンを外しに掛かる。
再生中の『光』が遠ざかり、
夢から覚めたような心地の私に、
七月半ばの雑多なビル街の圧力が、
暑さと共に押し寄せる。
辺りに蔓延する
日差しの眩しさに混じって、
生きることを攻め立てるかのように、
蝉が一斉に鳴き喚く。
足の裏から左斜めに生えた
黒い影に視線を落とす。
じっとりと汗の這う額に風を求めて、
当てもなくまた歩き出す。


大方私の向かう場所には
風が吹いている。
その風は概ね向かい風で、
ぼうぼうと音を残し、
私の両耳を掠めていく。
留まることが無いはずの風は、
そうやって私の耳に、
音だけを置き去りにしていく。
履いているコンバースの
平たい靴底は、
囁くようにてんてんと、
地面に一瞬間だけ
触れることを繰り返し、
等間隔で鳴る。
私はそれを気持ちよく聴きながら
徐々に歩くことに没頭していく。
前出の自分の右足音に引き続き、
同じように鳴るように
左足音を着地させ、また歩く。
作り上げた小気味よい音に集中する——
車道を走る車が近づいては遠ざかる——
現実世界の音の隙間で、
なんとか呼吸し終えた私は、
左手に握っていたイヤホンをまた
装着する。
ランダム再生させているアプリが、
さっそく趣味嗜好のマウントをとる。
この曲が
聴きたかったような気になる。
「だったらどこか別世界へ
 連れて行ってはくれないか」
音に引き攣られたフレーズが
脳内で一頻り悶える。
当ては無論ないまま歩き続けていると、
街の陽炎に
ぐらぐら茹で上げられていく躰が、
いずれ音楽に主導権を奪われる。
「だとしたら別の世界に
 置き去りにして来たんだろう」
この曲は
なんという題名だっただろうか。
反芻を誘う音楽に
脳内まで主導権を奪われる。
私は、習慣になってしまっていた
一連の回想へと引き摺られていった。

母が生きていた三、四年前——
彼女は贔屓にしていたアーティストの
曲をイヤホンで聴きながら、
ベランダで洗濯物を干していた。
動く度に彼女の履くサンダルが
地面と擦れて、その乾いた音が
開け放たれたベランダの窓から
聞こえてくる。
空になった洗濯カゴを
片手にぶらさげ、
カーテンを引いて部屋へ入って来る。
「今年もまたチケット取るけど
 紗英も一緒に行く?」
「ああ、いいわ。
 楓誘って行ってきなよ」
行こうかどうか考えるまでもなく、
代替案として
妹の楓を付添人にすることを
ほとんど無意識で提案し、
リビングでテレビを観ながら
面倒臭そうに即答した。
「出不精の楓が
 行くわけないじゃない。それに
 音楽っていったらリアルブースしか
 聴かない子でしょ」
リアルブースは家族至上主義系統に
絶大な人気を誇る、
R&B系アーティストグループだ。
アメリカの某グループを、
色黒の海の男系日本人にコピペして
出来上がったようなイメージしか
持てない私には縁のない音楽だった。
母が好きなロックバンドを、
私もたまに聴くので、
母との音楽共有度は
楓よりも高いのだろう。
母はコンサートがあると知ると、
こんな田舎から一人ででも
出掛けていくような人だった。
「また来年か再来年、
 冬辺りにでも
 ライブがあるんなら誘ってよ」
母が少々気の毒に思えたので、
いつの間にか台所に立っていた
母の背中に向かってそう付け足した。

それから数ヶ月後、
元々ふっくらしていた母は、
最近自分の体重が毎日減っていて
どんどん痩せてるの、
と喜んでいたのも束の間、
ある朝起きると
白目に黄疸が出ていた。
「肝臓が悪いのかなあ。
 ちょっと急に痩せすぎたせいかなあ」
折り畳み式のパイプベッドに
腰を掛けた母が、
黄色くなった眼を向け、
私に診察を促す。
「そうだね。最近めちゃくちゃ
 暑かったし、疲れが溜まってたのが
 肝臓に出たのかもね」
急に芽を出した不安を前に、
自分は彼女の黄色い白目と顔を
交互にフォーカスしながら
楽観的な回答をするように努めた。
彼女のやせ細った顎や首筋は
不健康に見えるどころか、
彼女の凛とした美しさを
際立たせていた。


近所の病院へ行くと、
総合病院で
精密検査を受けるように促された。
黄疸が出るまでにも、
母は背中の腰辺りが痛いと
よく呟いていたが、
病院に行っても
なんの異常もないと言われていた。
けれど、それはすでに
病気の兆候として躰に現れていた
明らかな症状だったらしい。
総合病院で一体何時間かけて
一連の検査を受けただろうか。
母はすっかり憔悴しきっていた。
「紗英も楓も疲れただろうから
 先に帰ってていいのよ」
「全然だいじょうぶ。
 あたしも楓も最後までいる」
心臓の高鳴りは、
恐れからくるものであったはずが、
日常を逸したこの日の体験のせいで、
わたしも楓も
テンションが少し高くなっていた。


総合病院内は
デザイナーズマンションにありそうな
洒落た設計がなされており、
日光が降り注ぐ中庭が
ガラス張りになっていて、
天井も高く、
とても開放感のある造りになっていた。
母が検査の順番を待っている間も、
私達はそこかしこと歩いて
見学して回り、
設置してある血圧計を見つけては
自分達の血圧を測るなどして、
今思えば下品ではあるのだが、
そこにある何かを
知り尽くそうと妙に昂奮していた。


結局母は
そのまま入院することになった。
それから二日後の朝、
看護師から電話があった。
「お母さんの今後の治療について
 説明をさせていただきたいのですが、
 あなた以外のご親族の方にも
 来ていただけますか」
というような内容だった。
だが楓は短大生で
夜はバイトに行っていたし
悪い知らせという予感もあって、
そんな話を直接彼女の耳に入れて
動揺させたくはなかった。
父は別の病院に糖尿病で
長年入院していて
合併症から目も見えず、
車椅子がないと動けない躰だった。
その頃は伯父や伯母とも
音信が途絶え気味であったため、
こんな時だけ頼る気にもなれず、
その日の晩、
結局私は一人で病院に向かった。

エレベーターで五階まで上り、
詰所に声を掛けた。
母はこの階にある大部屋で
横になっている。
私が来ていることに気付かれまいかと、
大部屋のある方角へと伸びる
薄暗い廊下を見遣りながら
母の存在を感じていた。
詰所から一人の看護師が出てきて、
白っぽい六畳ほどの部屋まで
案内された。
机越しには
既に主治医が腰を下ろして
何やらデータの整理をしていた。
軽く挨拶を交わすと、
椅子に掛けるように促された。
彼は私に向かって、
母の病状について机上の紙の上に
絵を描きながら説明し始めた。
この二日間、ネット上で
様々な情報を目にしていた私は、
膵臓に悪さをしている腫瘍か何かが
良性であることを
願わずにはいられなかった。
運よく良性で、切除して
今は元気に仕事復帰しているという
芸能人の記事を見つけ、慌てて
母に転送して見せたりもしていた。


だが今目の前に座っている
温厚そうな中年医師は、
母が膵臓癌であり
余命はあと半年から一年程だ
というようなことを
私に淡々と告げている。
今し方真っ白の紙に描かれた楕円状の
雲みたいな膵臓を見詰めながら、
次第に涙が零れ落ちてくるのを
抑えることが出来ず、
声を出そうとすると
喉元から何かが飛び出てきそうな
締め付けを感じ、
何を質問すればいいのかも
上手く思考できずにいた。
「明日か明後日のうちに、
 ご本人にも告知する予定です。
 できればお母さんのご主人も
 一緒に聞いていただきたいのですが」
説明を終えた医師が平穏な調子で続けた。
「父は他院に入院中でして」
車椅子に乗った父をどこかへ
連れ出したことなどなかった私は
断ることしか頭になかった。
医師は深く頷いて
同情する素振りを見せながらも、
私だけでは頼りなく思われたのか、
父をここまで連れて来ることを
再三催促し続けるのだった。

その次の日、
私は外出の許可を得るために
父の居る病院へ出向いた。
その日のうちに父には
母が膵臓癌であることを
私から告げておいた。
「そうか。…可哀そうに。
 …変わってやりたいでなあ。わしが…」
糖尿病を患い、
その合併症で白内障となってしまった
父の目は、白っぽい光は感じるらしいが、
ほぼ視力を失ってしまっていた。
ベッドで仰向けになった父は、
視線を宙に放り出したまま動かず、
可哀そうにと
しきりに呟き続けていた。
骸骨がぎりぎり
人間に留まっているような、
白髪でぼさぼさの頭と
青白い皮膚と骨だけになってしまった
父の躰を、
隣に突っ立って呆然と見下ろす私は、
親不孝の象徴のようだと思った。

母への告知当日の朝、
私と楓は父の居る病院まで
バスと電車を乗り継ぎ
一時間程掛けて赴いた。
父の病院でタクシーを呼んでもらい、
三人で母の待つ病院へ向かった。
介護などしたこのない私は
車椅子の扱いにも戸惑い、
父をタクシーから降ろすのにも
一苦労だった。
「今、病院の入口に着いたよ」
「今、エレベーター待ってるから」
「五階に着いたよ。
 お母さんここに入院してるの」
と、父とまともに
会話などしたことのない私達は、
状況説明をすることで、
コミュニケーションをとろうとした。


つい三日前の晩に
一人で説明を受けた小部屋は、
相変わらず余所余所しい白さで
私達を出迎えた。
病室へ呼びに出掛けた楓が
母と連れ立って小部屋へ入って来る。
父の顔色は相変わらず悪く、
今にも倒れてしまいそうな形相だ。
「お父さん」
母が父を見るなりぼそりと声を掛ける。
怒っているような、
うっとうしがっているような、
こんな場面には
相応しくないような口調だった。
「おお、おかあさんか、
 ああ、だいじょうぶか…」
纏(まと)まらない言葉を
出るに任せて
どこか惚(ほう)けた調子で父が返す。
母はそんな父へ面倒臭そうに
「うん」と呟き、席に着いた。


家族で受けた告知は、
ほんの少し
希望を感じることのできるような
オブラートに包まれたものであった。
膵臓癌だという事実と、
その癌にどう対処していくのか
といった具体的な手術や
その後の抗がん剤や
放射線治療についても話があった。
手術は癌を除去するものではなく、
予後不良を和らげるために施す
胆管と腸を繋ぐ
バイパス手術のことだ。
ずっと入院するのではなく、
術後は外来にてQOLを維持しながら
治療が行えるという説明もあった。
余命の話はなされなかった。
医師は終始
父の具合を気にしているようで、
憐れむように父を見遣っていた。


帰途、
父は疲れ切ってしまったらしく、
呼吸をするのもやっとのようで、
口をだらしなく開けて
肩を上下させていた。
父の病院に着くと
看護師を呼び
ベッドまで運んでもらった。
「じゃあ帰るね。
 しんどいのにごめんね」
ベッド際から父を覗き込み
声を掛ける。
「ああ、紗英ちゃん…
 ああ、ありがとうな。
 楓もな…ああ、すまんな…」

元々滑舌が悪く、
頭の回転も遅いので、
思っていることを
滑らかに喋ることの
できなかった父ではあるが、
歯がほとんど
なくなってしまっているにも関わらず、
入院してからは
入れ歯を装着することが
無くなってしまったせいで、
余計上手く喋ることが
できないのだなと、
その時初めて気が付いた。



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【noteで読む】第2回(『ノラら』紗英から見た世界)

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