学習塾:広告に寄せて(折込前⑨)

・「大学でのゼミ教授といったメンターの方々」
 「知的体験」

→ 専門ゼミと一般教養ゼミのふたつのゼミに所属していました。単位取得に論文が必須なのは、内田満教授の「政治過程論」(専門)ゼミでした。
 内田先生のように学部長に就いたことのある教授のゼミは競争率があるので、選考を通る必要があります。(←ゼミはすべての学生が所属するだけの数がありませんでした。)
 ゼミでの議論ももちろん知的に楽しいものでしたが、ゼミ後に高田馬場界隈に場所を移しての歓談は、ほんとうにいい時間だったと今でも懐かしく思い出されます。

 私がゼミ論のテーマに選んだのは、90年代に入り到来しつつあった、インターネット社会における(マス・メディアを通さない)政党や政治家個人による情報発信の重要性とその将来性でした。(←今振り返れば、要するにSNSについて研究していたのでした。)
 他にもこれからの時代(←私の大学時代はちょうど"失われた30年"のはじまりに該当します)は「民主主義」と「資本主義」が何らかの機能不全を起こすのではないか、という不穏な予感から、その方面の考察もゼミ論にうまく取り入れたいと、内田先生にも何度も質問をさせていただきました。
 学生時代に、このように純粋に"考えるためだけ"の時間をたくさん持つことができました。感謝です。

 一般教養ゼミは、藤井章雄教授の「放送ニュース英語」でした。英米のテレビニュースのディクテーションをひたすらするのですが、ゼミ生はほぼ帰国子女でした。そのような中で自分にできることは、誰よりも自然な日本語訳を作ることだと思い、実際のニュース原稿と遜色のないレベルにまで訳を仕上げるために何度も推敲を重ねるなどして、ひたすら努力を重ねました。お陰で藤井先生から「大学に残って自分の後のニュース英語を継いでほしい」とおっしゃっていただけるほどになりました。自分なりではありましたが、がんばれる限りがんばったことが認められたような気がしてとても嬉しかったです。

 人間はいつの時点かにおいて目一杯努力することが必要だ、ということは繰り返し強調しておきたいと思います。

 このようなメンターの方々と、それも複数の方々と巡り会うことができたことは奇跡のようです。
 僭越ながら私も、これまで葉山で教えてきた生徒の皆さんから、「先生に教えてもらってよかった」とシンプルにそう言ってもらうことができ、これはまことに教師冥利に尽きます。


 次回に続きます…

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