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月光もきっとそう波のようにやっとここへ辿り着いた

 川上未映子さんの新作『黄色い家』をとうとう読み終わってしまったので、しばらく虚無な時間があって、その間も日々は勝手に進んでいくし、仕事はそこそこ忙しいしで、曜日感覚がなくなっていく上に日付感覚もよくわからなくなっており、日付くらい気にしたほうがいいよなあ、と思うのだけれど、すっかり今、今のことに一生懸命すぎて、結局ああもうこんなに時間が経ったのか、と思うばかり。

 日記を毎日書けば日付を書くようになるだろうと思うけれど、手帳にすら日記を書き込めないので(メモ書きみたいなのはある)、やっぱり思うことをたらたらと書くことになってしまう。とはいえ憧れはすっごくあって、実は子どもの頃から何度もノートや手帳に詩や日記を書いていた。そしてそれらは往々にして身勝手でデリカシーのない大人たちに普通に見られてしまい、勝手に色々と口出しをされてしまう上に勝手に私のことをわかったように語られることがあり、そういう環境だったためか、うまくいえないけれど本当のことを書くことがだんだんできなくなってきていた。見られる前提で書くようになったし、どこに隠してもバレるので、ノートに書いていた日記は結局書かなくなったり、書いたとしても見られるような気がして使い切らずに焼いて捨てる、ということを繰り返してきていた。音楽活動中に作っていた作詞ノートもそうだった。授業中とかにこそっと書いていてためていたルーズリーフの詩のノートもそうだった。全部勝手に見られてきて、時には見ていないふりをされていたが、そのうち私は自分が最後にどのように置いたかを詳細に記憶するようになり、そのわずかなズレや記憶のないページが開かれているなどでわかるようになり、それらを追求することなく、消すか燃やすかばかりを繰り返していた。素直なことをそのまま書いていたと思うし、それが楽しかった。でも勝手なダメ出し、勝手な批判、勝手な押し付けと理不尽な説教を浴びるうちにだんだん悪いことをしているような気持ちになってきて、誰かのことを書くのも、誰かへ宛てる手紙も、その返信の手紙も、嬉しいものが全て、必死で隠さなければならないものへと変わり、しまいに困るものになり、だけど何が困るって、私自身が好きなことだから、どうしても続けたいという気持ちが、一番厄介になってしまうことだった。
 自分がやっと大人になって、思う存分書けるぞって環境が作れてから、こうしてSNSで日記を書くようになったし、日記というか備忘録というか、なんのために存在しているのかわからない雑文ではあるけれども、やっぱり、ここに存在している証拠を残したくて書いているような気がする。(誰に見られてもいいような日記を書いている、という自覚はあるけれど)
 例えばめちゃくちゃ悲しかったことや他人の悪口に似たような愚痴をそのまま書くというのはちゃんと躊躇われるわけで、それは読み手にとって不快な気持ちを生み出させてしまうきっかけになってしまうし、それはなんか嫌だから書くとしたらふんわりやんわりしたものに自然となる。(それでもそのままを書くときはその責任をもって書いている)
 毎日おおむねハッピーではあるけれども、そうじゃない日もあって、それが当たり前だけど、「その当たり前」を、人に読まれるための書き方をしているのは事実だなあと改めて。だから素直に書いている人の日記を見るのは、今まで親や他人に勝手に読まれてきた私の秘密の日記や詩のノートくらいの価値のものを読ませてもらっているような感覚であって、すごく、背徳感というか、そこまでここで読ませてくれるのね、ありがたいね、と思う。
 そんなこんなで日記の書き方は依然模索中、どうなるかはわからない。結局亀更新のままかもしれないし、なんかちょっと頑張るかもしれないし。でも私は結局、短歌にしろ小説にしろ何かしらで書くという行為自体が、好きなのだと思う。

 そして最初にも書いたけれども、ちょっと温めていた『黄色い家』を一気に読み切ってしまい、虚無感いっぱいで過ごす日々があった。なんか読もうかな、何読もうかな、から見つける気力も、選んだはいいもののなんか違うなという感覚も敏感で、結局正解はわからないけれどとりあえず海外文学借りて読むか、ってことになり、今はレティシア・コロンバニの『彼女たちの部屋』を読んでいる。そんなに読み進めてはいないが、面白いとは思っている。

 黄色い家を読んでて思ったのは、花の生きた世界は結構近くにあったような気がする、ということで、なぜなら私の母は若い頃に水商売をしていたため、店の女の子が家で寝転がっていることなんてよくあったし、それこそガラの悪い連中というのは普通にいた。家の構造が1階が店で地下に当たるところが家だったため、眠れない時は店に勝手に上がり、名前も知らないおじさんらに瓶ビールを永遠に注ぎ続けることもあった。陽気な連中もいれば、そうではない連中もいただろうし、私はそういう、一歩踏み込めば知らない世界、そして危険な世界にいる人たちを子供の頃から見かけており、何も知らないままに関わってきた記憶があるからか、花、また黄美子さんのような人も、なんとなく似ている人がいたなあという記憶が呼び起こされるのだった。花を救ったのも、変えてしまったのも金、そして、大人たちだった。これは小説だから書かれるリアルであって本来ならば警察に捕まるなり何なりとなってしまうことがあるころを、ここではそのまま流れていく。それを許されるのは小説だからであって、フィクションだから感じ取ることができる気持ちや思いつく考えというものがあって、それが私を豊かにしていってくれるんだね、と一人で納得した。ラストはとてもよく、花の根の優しい部分が見えて、結局はそう、子どもだったんだよなあということにもなるし、誰も花を責めることはできないし、全ては金と他人が彼女の人生を翻弄したのだと思う。それにしても苦労している。そんなに苦労しなくていい人生があったら、最初から送っとるやろけど、大人たちがダメダメだったし、お金はあんまりないし、ということで全てが悪循環の中で綺麗に循環していて、そこでしか息をしてこなかったのだから仕方のないことだと思えるけれど、いやそれでもこんなしんどい思いをしている子が現代に絶対いないというのはあり得ないわけで、ここじゃフィクションもどこかではノンフィクション、一人でも多く間違った道にいってしまうことがないようにしてほしいよなあなんて、無責任なことしか思えない私なのだった。

 でかいものを読み終える(長編とか)と胸にぽっかり穴があき、燃え尽きてしまったような感覚になる。文字を追うだけでそこまでの気持ちにさせてくれる素晴らしい作品を作ってくれる作家様方には感謝しかなく、私を豊かにしてくれてありがとうの気持ちでいっぱい、私もなんとか頑張っていこうと思う。
 ずっと本ばっかり読んでいるわけにもいかず、労働もあるので、上手いことやってきてはいるのだけど、とうとう庭にも手を入れる時が来て、先週の日曜には母と祖母がやってきて一緒に草刈りをした。庭になっているいろんな柑橘系の木を見て、これが八朔、これが夏みかん、これはなんだろう、わかんないけど文旦?なんだろうか?と言い合いながら木の周りの草を刈り取り、根元に日光が当たるようになると、一気に世界が明るく見え、草花が生い茂っているのも、別に嫌いじゃないけれども、土が見えているのもいいし、これから何を植えてやろうかと考える時間が生まれてワクワクしている。とはいえ成木のものたちをまずはちゃんと実をつけさせるところからだな、ということで草取りとか整備を今後ちょこちょことやっていくことになった。玄関側はまだ草が生い茂っており、そちらは手付かずだけど、夏になるまでにはちゃんとしてあげたい。


 こうして私はなんだかんだで人の助けがあって毎日どうにか生きているのだし、感謝しながら、できることは一生懸命やろうという気持ちでいっぱいになっている。誰かのためにすることは私のためでもある、という「部分」もある、と最近わかった。
 見返りが欲しいのではなくて、自分がした方がいいと思うからするのだけど、結局マイナスなことを考えて何もしないとか、イライラしても何も人生楽しくないので、楽しいこととか、自分のやりたいことが思うようにできるためにできることをやっているという感覚。家事もそうだし生活自体がそう。他人と暮らすといろんなことがあるけれど、私は私を軸に考えて、できることをする、という一点張りで、それに対する見返りなんて求めていないし、ダメだったらダメで仕方ないし、また何か解決策を考えればいいだけで、起こってもいないことに対する不安を生み出すより楽しみを生み出す方が精神衛生上絶対いいので、よくわからんことは考えない。何かが起こった時にそのことについて考える。不安になるくらいなら自分のしたいことする、あとそんなことに時間費やしてなんもできない方がよっぽどしんどい。人のせいにして生きるくらいなら自分に自分が選んだことへの責任を考えて今後どうしていくべきかを考える方が前に進む。
 数年前ならこんなふうに思えるわけがなく、全部自分が悪い、自分が存在していることが悪い、期待に応えられない、見捨てられる、ずっとひとりだ、なんて思っていたのに、今じゃ自分ファーストでまずは自分を愛でるし、嫌なもんは嫌っていうし、できないこともできないっていう。我慢しない。でもその分できることはやるのが条件にしている。とにかく今できることを、良いと思うことを素直にやるっていう前向きな気持ちが私を元気にしてくれている。人ってこんなに変われるものなんだね、とカウンセラーの先生に聞いてもらった。先生も驚いていた。

 いろんなことがあったことを振り返るたび、まあ自分も悪かったよな、と思うこともあれば、やっぱあれはどう考えても私は悪くないし理不尽すぎたよな、と思うこともあり、さまざまだけど、同じ場所に戻りたくないし、すぎてしまったことは仕方ないので、白紙の未来に目を向ける方が楽しい。過去はもう暗い。それらは無駄ではなかったし、そこにいたから今の自分があるので、全て必要なことだった、ということで落ち着いている。
 そして、今自分が書くという創造を続けている以上、全部糧にして書いてやるかんな、という気持ちがむくむくしてきて、覚悟というか、腹を括った。公募に出しまくってやるし、何回でも落ちて、落ちまくって、書いていきたい。その割に筆が遅いのが難点だけど、頑張る理由が生きる理由になるならオールオッケーというもので、暗がりには引き摺り込まれずに生きていきたい。

多分私はもう、十分、大丈夫なのだ。あの頃の私に教えてやりたい。

 などと思った日々でした。なんてまとまりのない。うまく生きていこうよね。

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