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あの窓から入る光を美しいと思う1日目


引っ越しをした。

これが12月の一番大きな出来事で、本当は年始から住み始めるつもりだったのだけど、わざわざ年末年始にバタバタしなくてもいいよね、となり、仕事終わりや休みの日などを使って少しずつ私の荷物を彼の家に運び込んでいた。

すでに私たちは週の半分くらいは一緒に過ごしていたため、それが、住む家を変えるタイミングで、じゃあもう荷物運んでこっちで一緒に暮らそうか、そうだね、そうしよう、という感じの、なんともゆるい、滑らかな変化だった。
だけどその滑らかさがあったのは気持ちだけであって、実際は運び込む荷物を運ぶのに苦労し、(特に本だ。一番重たかった。もう二度と運びたくない)完全に住めるようになったのは二日前くらいだったので、なんだかんだ年末手前までゴソゴソとやっていた。

新居といっても今まで住んでいた家との距離はわずか数歩で、ただ家を変えただけというか、いろんな事情があって(そう、前の家は冬を越すには寒すぎた)移り住んだという感じ。どことなく暮らし方がムーミンみたい。

そんなこんなで始まった同棲生活なのだけど、その結果職場まで一時間以上かかってしまう。だけど実家を挟むのでとりあえずは大丈夫。一時休息できる。
朝もどうにか起きられる。体の負担をかけすぎない生活をしていきたい。

今日は時間があったのでひたすら大掃除を午前中に行い、昼からは天気も良いので洗車をし、その後は手書きの年賀状のイラストを書いていた。今年はちょっと簡単になってしまったけれど、とりあえず描けてよかった。

今回の引っ越しで、彼と共同で使える読書兼作業スペースを作ったのだけど、本棚と机が一体化しているもので、とても便利がよく、ずっとここに居てしまう。
これからどんどん、本も増えるし、そのほか私物ももっと増えていくだろう。
そういえば彼の思いつきで花屋に行き、いくつか観葉植物と、お正月使用の寄せ植えを買った。また、とっても可愛いリースを見つけ、二人して心奪われてしまい、お迎えした。なんてヴィヴィッドで、綺麗なのだろう。


すんんごい可愛いよねこのリース


猫がいるのであまり花は買えないのだけど、少しでも植物の彩は欲しいので、猫にへの悪影響がないものを選んでいくつもり。

何もなかった家に家具やら色々詰め込まれていくと、雑然として、早くも我が家という感じがしていて、こんなにも急速に馴染んでいくものなのだなあと感慨深かった。人が住むだけで家は息をし始める。反対に、もぬけの殻になった元の家は、一気に寂しくなり、今にも壊れそうに見えた。


全てが落ち着いてゆっくりしている間に、リビングの窓から差し込む光を見つめていると、なんだか胸がキュッとなった。

私に、誰かと「本当に」「ちゃんと」暮らす日がくるとは思わなかった。


この書き方がいいのかどうかわからないけれど、私は他人と暮らす事には何も抵抗がなく、そして、今までの恋愛でも半同棲のようなことはよくあり、そしてその度にプライベートの時間はほとんど家事で奪われ、他人のお世話をすることの大変さを身を以て経験していた。(なぜお世話かというと、本当に諸々をやっていたのだ、料理洗い物洗濯、人が面倒臭がってやりたがらないこともほとんど)
まだ結婚したわけでもないのに、まだ恋人なのに、そう思っていても、どうしても、なんだか、やっておかないといけないような気がしてしまい、色々と尽くしてしまっていた。
家事やら何やらを一人が主になってやることが疲れることとわかっていても、やらなければならないと抱えてしまっていたのは、完全に完璧人間の典型的なアレと、プライド的なアレ(と長女的なアレ)もあった。
そうして最後はストレスになり、やんなって、もう無理だ、と限界がきてしまうのが常だった。

だけど助けることとか、誰かの役に立てることに満足感を抱き、自分という価値観を確立させるためには、他人と暮らすことは苦じゃないと思っていた。
ただ、本当は、一人の時間もすごくすごく好きだから、確保したい。確保させてくれるならば、いいのだ。誰と暮らそうとも。助け合っていけるならば。

そう思っていても、分かり合えなかった分と、頑張れなかった分だけの失恋があり、破局があり、絶交がたくさんあった。

それで思い至ったのは、他人と暮らすことが苦じゃないのではなく、苦じゃない自分を演じていただけで、そうじゃないと私の思う「理想の彼女像」もしくは「よき妻像」にはなれないと思い込み(そのベースは母だ、間違いなく)、うまく世間に馴染めない気がしていた。できないとダメ、それくらいのことができなくてどうするの、と、誰がいうでもなく私が私に訴えていた。

だから本当は、私みたいなやつは独りでいた方がいいタイプのやつで、
拗らせているのは私の方だということだった。

恋愛はしばらく懲り懲りだな、他人と暮らすなんてもってのほかじゃないか、そもそも恋愛に関しては自他共に認める典型的ダメ男ばかりを選んでしまうし、それで疲れちゃうし、最終的には独り身でいる方が向いているんだ、これだけ本心は自由を求める人間なんだもの。そうだそうだ、と、
結構本気で腹を括っていたのだけれど、なんでだろうね、今はこうして、恋人ができ、一緒に暮らそうとしている。しかも今度は、ちゃんと、二人だけで住む家を、私の本当に帰る場所まで作って。

今までと違うのは、私だけが頑張らなくていいこと。「一緒に」生活ができるし、足りないことも補えるし、なんだろう、これが理想なのか、普通なのか、今までが普通じゃなかったのか、よくわからなくなるほどに、今、ありがたい気持ちでいっぱいで。

いろんな人がいるとはわかっていたけれど、いろんな人がいてもいろんな違いのあるダメ男しか選ばなかった私が、今、同じことを繰り返している感覚が全くない。

人生で初めてである。
その時その時にできる範囲のことをできるだけやっていれば、その他のことはもう一人がフォローしてくれるというありがたさを経験したのは。そして、できないでいる自分を許すことができたのも、初めてなのだった。

惚気話に読み取れるかもしれないのだけど、許してほしい。
そして、どちらかというと喜びと驚きでいっぱいの日々で、あたらしいせいかつを学び、経験を積んでいる最中なのだということも。

今年はいろんなことが一気に始まり、一気に終わり、一気に変わった。
環境も、人間関係も、生活も、全て。見える世界は広がって、関わる人たちから学ぶことができ、尊敬できる人が増え、感謝の気持ちでいっぱいになり、住処を決めることもでき、ラッキーとラッキーがずっと数珠繋ぎである。いつまで続いてくれるだろうか。

そして、創作を続けていこうと思える場面が何度もあった。応援してくれる人が増えた。短歌はもっと作るし、小説も挑戦する。占いももっと勉強する。

私はできることとできないことの境目を作ることができない。なんとなくわかる部分が満遍なくあるせいで、どれも中途半端なのに、どれもうまくやりたいと思ってしまう。及第点すらならないものを大事にしてしまう。

それをやめようと思えたのも今年になってからで、できないことはできないでいいし、興味がないものは興味がないでいいのだ。
知らないからダメでも不正解でもなく、私が知らなくても誰かが知っているし、誰かができるし、誰かが愛する。

私は私の愛したいものをとことん愛していきたい。

満遍なくできなくてもいいから、成績表なんてとっくにないのだから、点数をつける必要も、不出来だとわかってもや努力でリカバリーすればいいのだ。

笑っているといいことがあるので、たくさん笑っている。読んでいるとあたらしい自分とあたらしい世界に気づけるので、たくさん読んでいる。占うと相手が元気になってくれるのでたくさん占っている。大好きな人たちが大好きなので、大事にしている。恋人がいてくれたら私は元気になれるので、全部頑張れている。
書きたいものを書いている。作りたいものを作っている。

もうほんとうに、それでいいのだ。何もかも。

新年を明るく迎えるためにも、後少しの2022年を、楽しみます。




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