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すべて春のせいにしてもいいよ

 目が眩むほど光っていた桜が、少しずつその輝きを落とし始めている。
その代わりに、新しく芽吹いた葉っぱの緑がところどころに見えるようになってきているようだった。春の盛りは一瞬で通り過ぎてしまう。

 新生活が始まった人たちもたくさんいるだろう、通勤や退勤中の車の混雑がそれを表しているな、と思った。私もまた、同じ職場で新年度が始まったのだけれど、あくまでそれは、3月までそこにいて、新年度という区切りにシフトしただけのことなので、新しく環境が変わっただとか、生活スタイルが変わっただとかじゃなく、日付が変わったと同時に新しくなった気分、という感じ。もちろん目に見えないところでは新しい仕事が増えたり、取り組むべき課題があったりするのだけれど。また今年度もがんばりましょうね、という感じ。とはいえこの生活も残り3ヶ月もなくて、5月末には終わってしまうのだ。1日1日を大切にしていきたい。なるべく平和に、事故も怪我も病気もなく、なるべく楽しく。穏やかに。

 新しい生活が始まった方々、きっといろんな気持ちだろうな。いろんな人が、いろんな気持ち。緊張もするし、楽しみでもあるし、怖かったり、嬉しかったり、いろんな感情がひっきりなしにコロコロと変わり続け、1日が終えた頃にはすっかり疲れ果てているかもしれない。新しい環境に身を置くという選択をした人にとっては避けられないものだけれど、どうか気持ちに振り回されてもいいので、自分を責めすぎたり、追い込みすぎたり、気負いすぎたりしませんことを。
 がんばるぞ、という気持ちはエネルギーになるけれど、どんどん消耗していくものだから、限界があるので、いかに省エネでやれるかだと今は思う。いやでも、最初っから省エネは難しいのよね。だけど、どこでちゃんと、気を抜くかっていうのが大事なのだよなあ。休みの日は休みって、ちゃんとできればいいのだけれど、それもできなかったりするわけです。
 休職をしたのちに退職をした頃の私は、働き始め、初っ端からプレッシャーがすごくて、100%、いや120%を出そうとしすぎた結果、その年の夏には入院していました。(しかもね、別に、なんも、すごいことをしていたわけじゃないのよね、できる限りをしようとして、エンジンをふかしすぎていたというか、周りにとっては及第点のことを私は、無駄に、本当に無駄に気を遣いすぎたり、やりすぎたりしたのだと思う。きっと。あとは人間関係が苦しかったな)
 だめになるのって一瞬ではなくて、私の場合はじわじわ、蓄積していった方だった。職場の人間関係とか、見えすぎてて、みなくてもいいのに、全然、堂々としていてもいいのに、思い描いていたものとは大きくかけ離れていて、いや、それはなんとなく覚悟していたことなのだけれども、それでもやっぱりしんどくて、そして根本的に、自分がまず自分に負けていて、現状に不満があって、家族からの過度な期待とかプレッシャーに対しての不服さもあって、「自分で自分を生きていない」という自覚は、虫歯みたいにじわじわ浸食してきて、心を折れやすくさせるのよな。
 日が経てば経つほど職場の人のことを誰も信じられなくなったし、ああここは自分の居場所ではないと思ったし、ここで自分の居場所を作っていくことを諦めたかった。いや、半ば諦めていた。はっきりと無理なものは無理だ、と自覚した時には、すでに不眠、眩暈、耳鳴り、抑鬱状態だったので、そのまま入院しました。それからは身内やご近所さんの目が怖かったな。すぐに噂になるしで。特にいやだったのは、車のナンバーや車種を覚えられていて、どこにいたとか、誰といたとかを知った人が私のいないところで話す。あれ嫌だったな。それを言い合って何になるのか。暇なのかほんとに。いまだに私は、人の車のナンバーを覚えている人については少し身構える。覚えている人ほど言うというかさ。どこどこで見かけたんよ、とか、どこ通ってたとかさ。車みただけでわかるの普通に怖いよ、と思ってしまう。友達相手だったらわからなくもないのだけれど、すれ違うからってて手を振る間柄でもないんだよね。でも知ってて、いないところで話す。やっぱちょっと怖い。
とはいえ私はとても覚えやすいナンバーにしているのだけれども。別に知っててくれてもいいのだけれど、どこに誰といついたとか、どの道を通っていたとか、そんなのどうでも良いし、話さないでくれよ、と思うのだった。そんな人がたくさんいた前の職場。私対何十人という人を相手にしていると、まあ、そういう人もいるのだろうけれど。
 そんな余談はおいといて、とにかくダメになる時はダメになったし、治療を受けるとか、引きこもるとかの時を過ごしていました。何度も自分を責めたし、家族のことだって嫌いだった。愛されていなくても別にいいと思えたのはつい2、3年ほど前のことからだし、自分は自分の道をいくのだと思えたのも、夫と出会って、一緒に暮らしてからだった。環境を変えた結果、良くなったとも言えるし、病んでいる間にサポートしてくれた上司や医者、友達の支えもあってこそだった。
 日々、絶望をすることは簡単だけれど、希望を夢見ることは難しかったなあ。
 なんというかそういう、明るいものを思い描くと、私の場合は嘘みたいで、夢みたいなものだった。できそうでできないことばかりに思えたし、希望を夢見たところで何も変われないだろうとか思っていた。でもそれは、描いてたものが当時の私にとって、たとえば健康面とか時期だとか、あと、金銭的な面だとか、現実的なところを考慮していない高望みをしすぎていただけだったと今は思う。
 そういうことではなく、希望って、もっと身近に、もっと些細な、幸せというか、安らぎというか、そもそも、「私はこれでいいのだ」と認めてあげるだけでも、そういう私を求めて叶えてあげるだけでも、見える世界は違ってくる、くらいのことで良かったのよな。がむしゃらに病んでて、わからなかったけれど、がむしゃらに病んだ結果、今ここにいるので、結果論だけど、良かった。周りの人には感謝しきれない。そして何より本があった。それが救いだった。
 
 私の場合はそんな感じだったけれども、今の人たちはどうなのだろうかな。時代が変わるとともに社会との向き合い方も違うのかしら。だけど、きっと同じように苦しむ人も、迷う人も、必ずいるものだから。
 どうか、今何かを頑張り始めて、うわーってなってて、なんかもう、やっぱ無理だなって思うことがいつの日か訪れても、本当に、できるところまででいいというか。
 ぶち当たった壁に対して、これからの自分がどうしていきたいのか、どうありたいがために何ができるだろうって考えてみるタイミングなのかもしれない。
 何かを言い訳にして、今の自分の生活に不満を漏らすうちは成長もできないし変われないから、どんな手段を使ってここを乗り越えていくかを考えて、攻略していけたらいいよね。(これは、当時の私はできなかったことだし、今の私にはできること、である)
 キラキラしなくてもいいし、派手じゃなくてもいいし、笑顔を絶やしてもいいので、どうしても無理な時は、この春のせいにしてもいいから、頑張っていいけれど、頑張りすぎませんように。

 春はただでさえメンタルがやられやすいんだからさ。ずっとずっと元気でいられないんだよ人間って。綺麗なばかりじゃないんだよ春って。そう思っていていいから、楽しいことをしながら、今を生きて。私も生きるよ。


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