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自分のニッチ

落ち着く場所の居心地の良さは、
居心地の悪い場所に行った時に身に沁みてわかる。

私は仕事柄、平日に出かけることがほとんどだ。
コロナ禍になって以来、ステイホーム・ソーシャルディスタンスがは薦められて街に繰り出す人は減った。
こんな生活スタイルも早二年が過ぎ、ワクチンを打つ人が増えるとともに、街の活気は戻ってきている。

久しぶりの土日休みで、休日の雰囲気に浮かれて都内に出かけたら人の多さに圧倒されてしまった。コロナに対する耐性はできたけど、人の量に対する耐性はかなり落ちた。

自分にとって、ゆったりとして人がまばらの落ち着いたペースに身を置くことは結構重要なことだと改めて気づいた。

日々、自分のことを観察していく中で辿り着いたのは、私はどうやら「かなりこまめに見てあげないといけない植物」みたいだ。雑にあったら手がかかる。自分でも時々、面倒臭くなる時がある。なんでそこで引っかかるんだよ、スルーしたらいいじゃない、って。適さない場所に放っておいたら、みるみるうちに弱り始める。その反面、すくすく育つ環境は限られているけど確実にあって、そこに身を置くことができたのならば、しっかりと根を張ってのびのびと育つことができる。

たまに水をあげて、日の当たる所に放っておいたらぐんぐん育つ植物みたいにタフになりたいし、その方が生きやすいだろうなと、いつも思う。そうなれると思って生きてきた。そして、年を重ねるにつれタフになるものだと思って、そういう育て方(自分への接し方)をしてきた。でも、それだとどうも調子が悪いのだ。

一見ネガティブに聞こえる話だが、私の中では割と明るい話。だって、ちゃんと根を張ることができる環境を分かりつつあるから。面倒だな〜と思うことを丁寧に時間をかけ、手をかけてやっていくことが遠回り見えて、私にとっては一番の近道なのだ。
(私にとっては、ジャーナリングと言われるような頭の中のことを書き出して整理すること、好きな音楽を聴くこと、自分の肌の調子や体をストレッチして整えること、などなど。あなたにとっては何をすると整う?)

人によって、幸せ・辛い、楽しい・つまらない、快・不快な条件は異なる。今の時代、スマホを開けばあっちこっちから周囲のこれかが目に入ってくる。そして、それは充実度が増し増しになって自分の目に映る。

だけど心配無用。自分の中の悦びや心地よさを知っていたら、「画面越しの知らないあの子にとってのは悦び・楽しみはこういう形・時間・場所なんだね。」と比較や落ち込みといったジメジメした感情抜きにからっとした晴れの日のように受けとめ、「私にとってはなんだろう?」と自分に焦点を当てて考えられるはずだ。その答えは自分の興味関心とともに変わっていくだろうし、すぐ答えられる時もあれば、答えられない時もあると思う。そんな時は、外側に答えを求めるのではなくて、静かな場所で自分の内に問いかけてみたい。知っているのは、ここにいる自分だから。





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