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同じ「ひとりの人」への想像力を持てるか:茨木のり子の生き方

最近、試験勉強のように仕事に関する「調べ物」をしています。
そんな時は、「感情」の息抜きをしないとね。

今日は、茨木のり子さんの詩集について書いてみたいと思います。
本屋さんで、谷川俊太朗さん選の詩集が出ていました。


私がきれいだったとき


わたしが一番きれいだったとき
まわりの人たちが沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

茨木のり子さんは、終戦二十歳で迎えたのですね。
衣食住の心配のない、ましてや命を脅かされることのない
今のこの環境を、「私たちは生かせているのかな」と思いました。
少なくとも「不自由がない」生活環境の幸運を。

この詩の後半を知っていますか?

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさみしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように

この詩は、茨木のりこさんが30歳頃に書かれたようです。
(32歳のときに刊行された詩集『見えない配達夫』に収録)

二十歳で終戦を迎え、79歳で亡くなるまでの約60年
戦後、高度成長、バブルと崩壊、ITの進展、、
大きな変化を、どんな思いで見つめていたのでしょうね。


50歳から韓国語を習い始める


茨木のり子さんは、50歳から韓国語を習い始めたそうです。

1976年のことですから、韓流ブームのはるか前です。
※最初の韓流ブームは 韓国ドラマ「冬のソナタ」の大ヒット、
2003年〜2004年頃だったようです。

習い始めたきっかけは、このようなことだったようです。

最愛なる夫を病いで亡くし哀しみのどん底にいたとき、そこから立ち直るために韓国語を習い始めたと同著で述べていることは印象深い。

http://www.kampoo.com/essay/ibaragi_noriko.html

習い始めて10年後にこちらの本を刊行。

さらに4年後、64歳の時に「韓国現代詩選」を刊行しています。

韓国の詩人12人の作品62編を日本語に翻訳した大著である。
韓国語は日本語と似ている部分があるとはいえ、文学作品を訳出するのは並大抵のことではない。

https://mainichi.jp/articles/20220318/dde/012/040/003000c


りゅうりぇんれんの物語


詩集のなかに、このような叙事詩がありました。

劉連仁(りゅうりぇんれん) 中国の人
くやみごとがあって
知り合いの家に赴くところを
日本軍に攫(さら)われた
山東省の草泊(ツォオポ)という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと

この叙事詩の背景について、巻末の
小池昌代「解説に代えて」で触れられています。

昭和十九年、日本軍に攫われ、北海道雨竜郡の炭鉱まで強制連行、過酷な労働に従事させられた中国人。劉連仁を描いた叙事詩である。
便所の汲取口から汚物にまみれて這い出し脱走、以降十三年、山の中を逃げ続け、やがて日本人の猟師により発見された彼は、母国へ戻って妻子と再会する。
小野田寛郎さんのような人が中国にもいたのだ。

ともすると私たちは、どんなときにも「被害者側」に立とうとしがちです。
それが「自分を守る」ことを、私たちは「本能的に」知っているのではないでしょうか。
自分が「優位に立つ」ということを。

詩を支えているのは、どうしても書かなければならないという強い動機で、私はここに、ハングルを学び続けた強い動機と同じ種類の熱情を感じる。
茨木のり子には、政治の前に、国を超えて、一人の人間の悲しみに反応し、そこへ乗り移る強い能力があった。

いつの時代も、「人間の本質」は変わらないのかもしれませんね。

ひとりの人として、同じ「ひとりの人」への想像力を持てるか?

「政治の前に、国を超えて、一人の人間の悲しみに反応する」
この感覚を、時々思い出したいと思いました。

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