隣人が幸せでない社会は幸せな社会ではない
コロナ、経済低迷、、どんどん生活が縮こまりそうになりますね。
少し目線を上げるだけで、私たちの意識は変わるんじゃないか。
そんなことを書いてみたいと思います。
以前こんな記事を書きました。
書いたきっかけは、こちらの対談でした。
この中で、もう少し取り上げたい話がありました。
隣人が幸せでない社会は幸せではない
対談の中で磯田道史さんが語っていた言葉。
隣人が幸せになれる社会は、自分も幸せになれる社会
先日こんな記事も書きました。
北欧へは、北欧の住宅の視察に行ったのですが、
人々はこのように語っていました。
・人として良い暮らしをするためには、良い住宅に住まなければいけない。
・人の暮らしの元は住宅にあり、
人は最後まで住宅で目分らしく暮らすべきである。
ここでいう住宅とは、「人間らしく暮らせる家」です。
高齢になって入る施設であっても、
「家らしく」あることにこだわりがありました。
また、国の社会保障などについて、人々はこのように語っていました。
・病気やけがや何かしらで生活できなくなることは、
誰にでもありうること。
・みんなが幸せであるべき。
「みんながこうあるべき」という言い方をするんですよね。
これは「多様化」=個人の選択、それは自己責任を伴う。
このような都合の良い「自己責任論」とは、一線を画しています。
みんな人間らしく生きるべき。
そのためには社会保障を充実し、教育にもお金を掛けるべき。
幸せに生きられる土台があってこそ、「その人らしく」生きられるのだと。
そして、その負担は自ら飲む、と。
隣人との距離は遠くなる一方
時代が変化し、もう「家」のために生きる時代ではありません。
コンビニなどの普及でいつでも何でも買え、一人でも不自由せず、
生活を「自己完結」出来るようになりました。
IT化でさらに便利に。
もはや買物に家から出る必要さえ無くなっています。
追い打ちをかけるように、コロナ。
IT化で世界はどんどん広がる一方で、
実生活はどんどん殻に閉じこもろうとしている。
同様の記事で、独身男性が「食」で「幸福感」を得ている
という話を書きました。
その結果としての「短命」とみて取れます。
大食い番組の良さは、私には全くわからないのですが、
こんな「病理」を表していないでしょうか?
自分がこれからどう生きるかに「他人」は欠かせない
こちらの記事で
「生活の一部をシェアする住宅」=コレクティブハウス
について触れています。
日本もそろそろ消費社会のドン詰まりです。
「シェア」も浸透しつつありますね。
不便だから共同体社会で生きるのではない。
そろそろ、わずらわしさのトラウマから脱却し、
新たな個人と個人のつながりを持てる社会へ。
消費社会、競争社会、自己責任社会の限界の先。
私たちはどう生きるのか、問われています。
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