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日本の教育が限界を迎えている理由(0/5)

「暗記すること」「簡単な処理を繰り返すこと」「指示に従えること」

「Most Likely to Succeed」のエグゼクティブ・プロデューサーであり、米国のイノベーション教育のオピニオンリーダーであるテッド・ディンタースミス氏が2018年6 月「What School Could Be」の基調講演で主張した「伝統的な学校」についての言及は非常に核心をついています。

それはすなわち、伝統的な学校で行われている基本的訓練とは「暗記すること」「簡単な処理を繰り返すこと」「指示に従えること」の3つであるというものです。まさにこの3つができることが現在の学校では非常に重視されています。
その3つが優れている子どもたちが優秀であるという評価を受けているのです。氏が言うように、そこには大きな問題が隠されています。それは、正にこの3つの能力が 「AIの得意分野」だということです。

少々極端ですが、現在小学校1年生の子供たちが今から大学卒業時までこの3つの基本的訓練を受け続けたとします。成人した彼らが2030年代の世の中で自分のやりたい仕事を見つけ、自己実現していく可能性が高まるでしょうか。残念ながら「暗記すること」「簡単な処理を繰り返すこと」「指示に従えること」という訓練を受けてきた彼らが得意とする仕事は、ことごとくAIにとって代わられる可能性が高いと考えます。16年以上の教育を受けたのにも関わらずです。それはあまりに不幸なストーリーではないでしょうか。

『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』

世の中の多くの識者が「伝統的な学校」の限界を認識し警鐘を鳴らしています。『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』の著者であるマイケル・B・ホーン/ヘザー・ ステイカーは次のように主張しています。

要するに、生徒を学年分けして同じ内容の授業を同じ時間に実施する今日の工場型教育制度は、ほとんどの生徒の学習にとって非効率なのです。(中略)子どもに対する期待も大きく変化しているにもかかわらず、学校は変わっていないことは大きな問題なのです。

『世界はひとつの教室』

また、カーンアカデミーの創設者であるサルマン・カーンはその著書『世界はひとつの教室』の中で、

意図したかどうかはともかく、このシステム(伝統的な学校システムのこ と)は深い探求や自立した思考を阻む傾向がありました。1800年当時は、ハイレベル な創造的・論理的思考よりも、規律、従順、そして基本スキルが大切だったかもしれません。しかしそれから200年たったいま、前者が大切なのは言うまでもありません。

と伝統的な学校教育の問題点を指摘しています。サルマン・カーン氏の言う『規律、従順、そして基本スキル』と、テッド・ディンタースミス氏のいう「暗記すること」「簡単な処理を繰り返すこと」「指示に従えること」は、伝統的な学校が子どもたちに求めるスキルとして多くの共通点があります。

『情報時代の学校をデザインする』

さらに、『情報時代の学校をデザインする』の著者C.Mライゲルース氏とJ.R.カノップ氏 は、

こうした大きな視点から見ると、情報化時代へと移行が進むにつれて、教育においてもパラダイムの転換はいつか必ず起きる・起きなければならないという考えは理にかなっています。時代遅れの教育システムではもはや、現実世界に対して適切に生徒たちを準備させられないのです。

と、教育のパラダイム転換の必要性を説いています。

『「学校」をつくり直す』

日本においても、教育学者である苫野一徳氏はその著作『「学校」をつくり直す』の中で、

公教育が始まって、約150年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムです。ところがこのシステムが、今いたるところで限界を迎えているのです。』

と主張しています。

ここまで話すと、「そんな主張は一部の進歩的な人のものではないか」「なぜ工業時代の学校を変えるような実践が広く全国で起こらないのか」「工業時代の学校はまだ十分に機能しているではないか」などと言われます。

教育的なインフラ

私は、「なかなか学校が変われない原因は、我々の学校を取り巻くあらゆる教育的なインフラはすべて工業時代の思考のもとにデザインされているからだ」 と答えています。 そして、続けてこう説明します。「学校の校舎は日本全国どこに行っても似たようなデザインです。いまだにほとんどの教室に黒板が設置されています。その黒板は教室の西側に取り付けられ、子どもたちは左側に窓が来るように黒板側を向いて整然と座っています。学年ごとに検定教科書が用意され、教科書会社が作成した指導書が多くの教員に行き渡ります。業者が作った教材や単元テストが採用され、その単元テストを軸に全員が同じ場所で同じことを同じ方法で同じペースで学びます。そして彼らの行動はチャイムによって厳格に管理されています。そのすべてが工業時代の教育の中に見事に組み込まれており、どこか一つを変えるにはものすごいパワーが必要なシステムになっているのです」と。

自動車産業で例えると

例えば、自動車産業をとりまくインフラを例に考えると分かりやすいかもしれません。 「環境のことを考え、ガソリン自動車をやめて電気自動車や水素自動車に変えよう」という主張のもと、すべてのガソリン自動車を一気に電気自動車や水素自動車に変えようとするとどんなことが起こるでしょうか。

我が国の自動車関連の就業者は、直接的に自動車工場や部品工場などの「自動車の製造部門」に従事する人をはじめ、貨物や旅客、それに付随するサービスに従事する「利用部門」、ガソリンスタンドや損害保険等の「関連部門」、自動車に関わる様々な部品の製造 等を担う「資材部門」、自動車の販売や整備等に関わる「販売・整備部門」などに多岐にわたります。

平成29年度時点で我が国の自動車関連就業人口は何と約539万人で全就業人口の8.3%にものぼります。その全ての部門を取り巻くインフラの多くは「ガソリンで走る自動車」を前提に長い年月をかけて作り上げられたものです。「ガソリンより環境にやさしいから全てを水素自動車に変えましょう」と言われて、すぐに変えられるものではないことは明らかです。

教育改革を阻むもの

教育の世界でも全く同じ原理が抜本的な教育改革を阻んでいます。明治以来作り上げられてきた教育インフラは「工業時代」の思考をもとに長い年月をかけて作り上げられてきたのです。「教科書」「教科書の解説」「様々な教材・教具」「業者のテスト」「校務ソフト」「教室や学校のデザイン」といったハード面から「教育課程」「授業観」「教員養成」「授業研究」「人事考課制度」といったソフト面にいたるまで、あらゆるモノが「工業時代」の思考でデザインされてきたのです。

今こそパラダイムの転換を

私は現代の学校は150年~200年に一度のパラダイム転換の時代を迎えていると確 信しています。日本のいたるところで新しいタイプの私立学校が産声を上げ始め、ここ数年間では公立学校の先進的な取り組みが次々とネットニュース等で取り上げられるようになりました。市町村レベル、都道府県レベルで大きく教育を変革させていくような動きも、10年前では考えられなかった規模とペースで起こりはじめています。

未来を生きる子供たちに、その時点で考えうる最善の教育を与えていくことは、教育に関わる大人たちの責務です。私は一教師としてこの20年間、目の前の学級で「脱工業化教育の実現」「画一的・伝統的な一斉指導からの脱却」を目指して実践を積み重ねてきました。今回は5点の具体的な実践を通して、新しい教室の在り方を提案していきたいと思います。

根底にあるもの

脱工業化の学校を目指した具体的な実践を紹介する前に確認しておきたいことがあります。それは、これらの実践を紹介する目的についてです。私は具体的な実践の“方法”を広めたいという気持ちは毛頭ありません。むしろ“形だけ同じような実践”が広がっていくことで、その根本にある理念が薄まっていくことを危惧しています。私が伝えたいのは実践の根っこにある理念の部分です。

その理念は、「全ての子どもは生まれながらに尊重されるべき存在であり、その可能性を最大限に開き、一人残らず幸福な人生を歩み通していくための助けになることが教育の目的である」という教育哲学であり、教育は「自立した学習者、自立した人間の育成を目指して行われるべきである」という信念です。

それは教育基本法の「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」という教育の目的にも通じ、
「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んじる態度を養うこと。」という教育の目標とも合致していると自負しています。

もはや限界を迎えた工業時代の学校

工業時代の伝統的な学校はもはや限界を迎えています。工業時代の学校は子どもたち一人一人を一個の人格としてとらえにくいシステムになっています。子どもたちを全体の一部としてとらえ、一定の枠からはみ出す子を切り捨てやすいシステムともいえるでしょう。また、そのシステムは20年後の不確実な未来を想定していません。

今のシステムのもとで、全ての子どもたちが幸福に生きることができているでしょうか。現代における最善のシステムでしょうか。教育システムが現代を生きる子どもたちに 適してないからこそ、ここまで少子化が進んでいるのにもかかわらず不登校の児童生徒数が毎年増え続けているのではないでしょうか。いつの時代も教育制度の機能不全が、最も敏感な子どもを取り巻く社会問題に表れているという視点を我々は絶対に忘れてはいけないと考えます。

子どもは社会の鏡なのです。我々は気付かないうちに工業化の学校というシステムの中で、工業化の思考にとらわれ過ぎてしまっている可能性があります。システムはその中で生きる人の思考に非常に大きな影響を与えるからです。

多くの教員が「勤勉であること」「我慢強いこと」「興味も関心も異なる子どもたち全員に一斉指導をすること」「賞罰で子どもたちをコントロールすること」「全員を一律の時間で教えること」「理解できていようがいまいが一定の時数で単元の学習を終了すること」「学期末には三段階で評価すること」「一定数の理解できない子がいるのは仕方がな いこと」「チャイムで時間が区切られていること」「静かに教師の話を聞くことが美徳であること」「背の順で前にならって整列すること」等に疑問を持たずにいるか、疑問をもったとしても「仕方がないこと」と割り切ってしまっているのではないでしょうか。
それらはすべて工業時代のメンタリティにほかなりません。

これから紹介する私の5つの実践は、一つ一つを見れば小さな実践に過ぎませんし、教育システムの変革に直接的につながるような実践ではないかもしれません。しかし、最前線で子どもと関わる方々にとって「工業化の思考」から抜け出す一助となり、現在の「学校教育を疑ってみるきっかけ」となればこれほど嬉しいことはありません。

つづく…

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