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日常生活で流通するロジックに「美」を持ち込んでいるか?

山縣さん

往復書簡の復活、大歓迎です。

美学と詩学とアントレプレナーシップの関係を探求していくのは、山縣さんの「使命」のようなものですから、第一歩、良かったです。

あれだけ、いつも自己紹介で「経営学には興味なく、文学に生きたかった」と散々言っておいて、経営学と文学を結びつける研究をしなかったら、これは罪です! 笑。

(もう、こういう発表をしはじめたので、そろそろ自己紹介であの部分は削除して良いのでは、と思っています。これからは、「えっ、それだけ昔からの強い関心があったのですか!」と後で知り、驚かれるとのパターンに切り替わるのでは?)

パンデミック初期に「なにかヨーロッパの人文学系の本をちゃんと読みたいですね」と話し合ってはじまった読書会が、3年にも及び、それによってお互い、ずいぶんと眺望が変わったと思っています。もちろん、とても良い意味で。ぼくの場合は、『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』の本の内容に生きています。

山縣さんの場合はアントレナーシップ研究と美学・詩学に向かい、リズム感がある前進と受け取っています。

アントレプレナーシップと美学・詩学の関係について、ぼくがすぐ思いつくことを3つ書いておきましょう。

1つ目。何かことを始めるには、話し言葉、それこそリズムのある話し方が、大きな推進力になると感じることが多いです。威勢が良いという事ではなく、静かであっても強弱を伴い、自然と流れるような話しが出来るとき、歩は前に進む。

ぼく自身、30年以上、ビジネスか非ビジネスかは問わずとも、常に新しいコンセプトをつくり(あるいは、その現場に身体的に身をおく)、それに基づいた実践的試みを主舞台としてきたので、アントレプレナーの頭と心の持ちようについて、それなりに勘がはたらきます。

その経験が語るのは、新しい人の出逢いが新しい方向のありかを示唆してくれた、ということです。何も、その人の考え方に一目惚れのように賛同するわけではないです。また、その人を数値的分析的に把握できるわけでもありません。しかし、その人は、例えばある身長である体重で、顔があり、極めて現実的な存在であり、物理的な輪郭がはっきりしている。

他方、その人の性格も考え方に関しては、不明な点が多い。この矛盾するような2つの要素が人間の社会を現実につくっていると実感できるのが、その人の口から発せられる言葉なんですね。

書かれた言葉は、その人からやはり遊離してしまうのです。結果、より論理性にウエイトがおかれ、起動力が弱まる場合が少なくないです。もちろん、ぼく自身も書く人間として、書かれた言葉を否定しているわけではないです。ただ、リズム感は圧倒的に話し言葉で、書かれる文章が人に伝わるかどうかも音読で確認したりしますよね。

2つ目。1つ目で書いたことのリアルな実感は、ブルネロ・クチネリとこの10年近く、継続的に接してきたシーンの数々にもあります。彼は詩を詠みあげるようなスピーチをするだけでなく、人との対話でも、その傾向があります。

散文ではない。

ご存知のように、イタリア語の世界では韻を踏むことが重視され、小学校の語学教育から教えられます。それを企業の創業者の喋り方から見せられると(というか、聞かされると)、詩学が視野に入らないアントレプレナーシップ論なんてあるのだろうか?と思います。

彼は文章も書きますが、非常にリズミカルです。古代ギリシャの賢者が音楽を重んじたのはリズム感に注目したからだと教科書的に言われますが、これは現代においてもある程度通用します。今の若い人が現代の音楽を聴くのは、メロディが最優先でリズムがその次にあり、歌詞は最後とのパターンではないかと想像します。いずれにせよ、リズムと詩のステイタスが高いのは変わらないですね。

3つ目。先日、話しましたが、英国のLibertyロンドンがミラノで開催しているFuture Libertyという展覧会は、美と歴史がアントレプレナーシップの基盤にあることを教えてくれます。イタリア語ですが、以下で様子がわかります。

Libertyロンドンは19世紀のアーツアンドクラフツ運動に縁をもつデパートであり、プリントされたテキスタイルの生産・販売をビジネスのコアにおいています。

展覧会は市内の2か所で行われていて、一つがアーツアンドクラフツのウイリアム・モリスのデザインからはじまり、20世紀初頭のイタリアにあった未来派の絵画を「光」「躍動」などをテーマに展示し、それらがミラノの建築にどう影響を与えたかまでが分かります。アーツアンドクラフツはアールヌーボー様式として発展したのですが、イタリアではアールヌーボーとは呼ばず、「リバティ様式」と称されるように、英国とイタリアの間の文化的相性の良さが強調されています。

もう一か所では、美や時代の解釈がコンセプトつくりで如何に重要か、例えば、未来派のジャコモ・バッラが如何にテキスタイルやファッションの世界に影響を与えたかの実例がでてきます(上記のイタリア語の記事にある写真はバッラのデザインによるファッションです。1918年-1933年です!)。

そして、このような事例のうえで、これからLibertyがどのようなテキスタイルを作っていこうとしているのかまで見せてくれます。

ぼくは、これを企画したLibertyのManaging Director から直接解説を聞いたのですが、その学芸員ばりの説明と彼の語るビジネスビジョンの見事さに心を動かされました。

以上の3つに追加して言うなら、ぼくが最近、ミラノの街を歩きながらの窓観察です。これについては、以下の記事を書いています。

ミラノ建築ガイドなどには手を出さすに、自分自身の身体的体験をベースとして、どこまで文化を自分の内に入れ込めるか?とのテーマです。トリノに来た当時、イタリアもトリノも好きになれず、ぶらぶらと街を眺めているうちにトリノの街を特徴づけるバロック様式を自分なりに「消化」したら、イタリアの魅力に嵌ってきた、という話が起点にあります。

現在、ミラノの建物にある窓や外壁をみながら、だんだんと街の質が読み込めるヒントを手にしているような気になってます。これは審美性の領域でもあり、街のコミュニティにおけるソーシャルイノベーションを考える際のひとつの確信に近づけるのではないかと考え始めています。

そうだ、最後に。

先日、ミラノ工科大でデザインを教えるアレッサンドロ・ビアモンティと昼食をとりながら、「日本の人は、イタリア人がロジックにも美を求めるのに感心するんだよね」と話すと、「えっ、そうなの?日本のミニマリズムとか、同じ傾向じゃないの?」と驚かれました。

そこで僕が思ったのは、日本の人は、日本の文化的特徴とされる「ミニマリズム」、「余白」、「削る」とかある決まったキーワードへの美には言及しがちだが、日常生活で流通するあらゆるロジックに美という判断を入れるわけではないのでは?ということです。で、そういう説明を彼にしたのですね。

あの時点では分かってくれたような気がするのですが、ぼく自身も生煮えなので、ここはもっと考えていきたいです。

写真©Ken Anzai

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