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黄金の卒業

「人間にとっての最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」

伊坂幸太郎『砂漠』


昨日、北海道大学を卒業した。僕らはこれから、学生という身分によって守られた澄んだ湖から放たれて、悩みという得体の知れない生き物が泳ぎ回る無限の海へと漕ぎ出していく。


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大学生は人生の夏休みと言うが、その名に違わず大学の4年間は疾風のように過ぎ去った。疾風は時に予想外の出会いを巻き込んで、時にしばしの別れを生み出し、僕という人生の4年間を形成していった。その始まりは2019年の3月にまで遡るが、そもそも僕は北海道大学に進学する予定ではなかった。

3月上旬に第一志望の国立大学から不合格通知を貰った僕は、第二志望だった北海道大学の後期試験を受験し、なんとか浪人を避けることが出来た。東京という、全ての事象が存在し、それが故に全ての価値が低下するような都市から離れて大学生活を送りたいという思いは、どうにか実現することになったのである。

入学式は、雪の舞う日に執り行われた。それまで奈良と東京でしか生活をしたことがない僕にとっては、入学式と雪という言葉の組み合わせがあまりにも異質で、本当に今までとは大きく異なる大地で生活をするのだと実感が湧いた。自称進学校だとか三番手高校だとかの不名誉な称号を持つ某都立高校から北海道大学に進学したのは(というか旧帝大に進学したのは)、僕を含めて二人しかおらず、ほとんど誰も知らない環境であることも、この土地の異世界性を増強していた。その異世界性は、まさに僕が欲していたもので、期待は最高潮に達していた。

入学式翌日のオリエンテーションで、クラスマッチ委員という、クラスメイトから8000円をどうにかして徴収することが唯一の仕事と言えそうな役職についた。1クラスにつきクラスマッチ委員は4名選出されるのだが、僕以外の3人とは、クラスマッチが終わった後も色々な形で交流を続けることになる。もしこの時、「クラスマッチ委員やろうよ」と隣と後ろに話しかけていなかったら、僕の大学生活はかなり濁っていたような気がしてならない。ほんの少しの積極性は、大学生活を大いに豊かにしてくれる。僕は、その積極性の先で出会ったのがあの3人であったことを凄く幸運だと思っているし、今に至るまで僕と付き合いを続けてくれていることに深く感謝している。

僕にとって大学1年生は、大学生の生活として想定していたものそのままだった。取り敢えず興味のある講義を上限まで履修し、空きコマに北部食堂の二階で友人と暇を潰し、大量のレポートに追われながらもそれを面白いと感じ、5限が終われば友人と夕飯を食べてワンルームの部屋に朝までたむろし、翌日の2限に出たり出なかったりし、一応平均を越えてはいるが別に特段良いとも言えないような成績を取るような生活だ。無論真面目とは言い難く、こうした大学生活で得た勉強面での大きな収穫は、レポートを「いかにも学びました感」のある文章にそれらしく整える能力の習得だった。

1年生の間に仲良くなった文学部の友人たちとの巡り合わせはどれも奇跡的で、彼らと作られていった日々は、僕の人生を着実に豊かにしていった。1年生も終わりになる頃には運転免許を取得し、僕は友人と共に真冬の知床で流氷に乗ったり、スキーに行って帰りに恐ろしき吹雪に見舞われ死を覚悟したりした。この頃の僕はまだ、こういう大学生活が4年間続いていくものだと思っていた。


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暗雲は知床に行った2月のあの日の時点で充分すぎるほど立ち込めていた。中国の武漢で見つかったウイルスが危険だと言われ出した頃、札幌の雪まつりには大量の中国人観光客が訪れていた。そうして、札幌は日本で最初に新型コロナウイルスが市中感染をした都市になった。

4月には緊急事態宣言という、フィクションの世界でしか聞かないような言葉が頻繁にテレビのニュースで流れた。マスクがあらゆる薬局から無くなった。駅前の商業施設は軒並み休業した。街から行き交う人が消えた。僕は誰もいない札幌の街を歩いてバイト先の小さな喫茶店に向かったが、客が来るはずもなかった。

教養課程を終えた僕はこの4月から学部の専門課程に進むはずだったが、もちろん大学も予定通りには始まらず、学期の始まりはゴールデンウィーク明けに延期された。それも対面ではなくオンラインになった。

講義のオンライン化については、メリットとデメリットの両方があった。メリットは、登校をしなくて良いことに集約される。札幌の地獄のように寒い冬に外出しなくて良くなったことで、寒冷から来る鬱屈さをある程度軽減できた。一方デメリットは、講義に対する意欲がまるで出ないことである。対面の場合、出席さえすれば教授の話を聞く意欲が出るが、オンラインで周りに誰もいない状況でわざわざ90分も講義を聞こうとは思えなかった。正直、2年生以降の講義は専攻の文化人類学くらいしか記憶に無い(それすらも怪しい)。

まあ、そういうパンデミックの生活にも人間はすぐ適応できるもので、5月も末になれば、僕は大学生から「大学に通う」という行為だけを抜き取った実質フリーターの19歳男性になった。フリーター6人で早朝から集まって観光客の少ない夏の富良野に向かったり、僕の20歳の誕生日に本土最東端の納沙布岬に向かい日本一早い日の出を見たり、ただただ持て余した自由を消費した。遠出はかなりした方だと思うが、それでも自室で過ごす時間も増えたので、僕はいつからか頻繁に小説を読むようになった(元々小説を読む方ではあったと思う)。2年生以降、僕の学費は実質的に図書館利用料として機能していた。大学の図書館は便利なもので、図書館に無い本も申請すると大体入荷してくれる。新潮文庫の有名どころは文豪の作品から今を生きる作家の最新小説まで揃っていたし、芥川賞作品を輩出するような文芸誌はラックに配本されていたので、読みたい本がなくなる心配はなかった。

こうしたパンデミックへの適応をある程度スムーズに出来たのは、2020年4月時点の僕が大学2年生であったことが大きいと思う。パンデミックが1年生のときに起こっていたとしたら、僕はきっと世界自体から隔離されていた。当たり前だった人との繋がりが尊いものだと、2020年の僕らは皆気づかされていた。


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3年生になれば就活が始まったが、ここでも財産となったのはこれまでに築き上げてきた友人関係だった。周りに就活を真面目に取り組む友人がいたからこそ、僕は就活に対するエネルギーを切らさずに済んだ。就活ほどに精神を摩りきるイベントはこれまでの人生になかったが、それを乗り越えられたのは間違いなく友人のおかげである。そこそこ真面目に取り組んだ就活は、そこそこ志望通りの会社に内定を得るという形で終幕した。初めての内定を得たとき、努力に対して結果が伴うことへの嬉しさが心を満たしたが、その努力も僕一人では成し得なかった。それを忘れるような人間に、僕はならない。

就活以外は、昨年から何も変わらないような生活を送った。友人を夕飯に誘って、その流れで何となく深夜まで駄弁るような日々である。北大の環境は、歩ける距離に幾らでも友達が住んでいて終電などという概念を気にすることもなく話を弾ませられる点でも、すぐ隣にある札幌駅の複合施設で欲しいものは全て揃ってしまうという点でも、そして、僕からすると大学周辺に個性的な古本屋が揃っているという点でも、この上なく理想的だった。

欲しいと思った文庫は北12条書店かBOOK LAB.に足を運べば見つけることが出来た。弘南堂書店には、文芸誌が50円か100円で叩き売られていることが多く、「野生時代」や「すばる」や「三田文学」を見つけると片っ端から購入していた。南陽堂書店はこのあたりで最も文庫の価格が安く、掘り出し物を見つけた時のお得感はピカイチだった。お金の遣り繰りを至上命題とする一人暮らしの大学生にとって、古本屋は娯楽を支えてくれる最高の施設だった。

季節が一回りすると、僕も、周りの友人も進路が決まっていった。僕と同じように、北海道から出て働くことを決めた人たち。北海道に残って働くことを決めた人たち。大学院に進んで学問の道を究めることを決めた人たち。それぞれ、自分の進んでいく道を選択していった。進路の決定は、自分がどこかに所属できるということへの安堵を与えてくれた一方で、大学生という圧倒的に美しい肩書きの終わりを仄めかせた。


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僕が最終学年に上がる頃、ようやく世間はパンデミック前の日常を取り戻し始めた。僕は専門課程3年目にして、初めて大講義室で講義を受けることになった。博物館実習の事前講義には100人近くの学生が出席しており、「こんなに学生っていたんだ」と驚くほどには、オンラインでの生活に慣れていた。

博物館実習自体は夏休みに入ってすぐ行われた。僕は札幌市内の美術館で実習をすることになったのだが、いざ行ってみると僕以外の実習生がまさかの全員女性だった。正直、初日は自分自身を異物のように感じた。このように、ある空間で自分という存在がどういう立ち位置に置かれるのかを意識したのも、久しぶりのように思えた。オンラインには空間という概念が存在していないからこそ、パンデミック前の生活に戻る課程で空間が気になるようになった。

その興味は、僕の卒論のテーマへと結び付いた。僕は、駅という公共空間におけるパブリックアートについての人類学的分析を、卒論の題材にすることにした。元々、人間の行動原理について考えることが多かった自分は、人類学という学問に出会えたおかげで、興味と密接な研究をすることが出来た。卒論はどちらかと言えば楽しく取り組めて、自分の研究の成果がこの数万字に込められていくのかと思うと、筆も自然と進んだ。卒論の評価がA+だったことは、僕のなかでの細やかな自慢であり、自信でもある。

卒論と並行して、遊ぶことも忘れなかった。ニセコのコテージを借りて遊び回るとか、友人の両親と飲んで動けなくなった別の友人を介抱するとか、地域支援クーポンによって破格になった旅行パックを見つけては寸前に応募するとか、きっと大学生だからこそ実行に移せるバカで最高な出来事が沢山あった。あまりにもそういう思い出が多すぎて、もはやその全てを語ることはできないほどだ。思い出しても思い出しても終わらない4年間の完璧な歴史が、ここまでの文章を書く強い原動力になっている。


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卒業は呆気なかった。卒業式は気付けば終わっていて、写真を撮っているうちに日が傾いて、そのあとにあった友人との飲み会を終えた後も、卒業という言葉がいまいち頭のなかで輪郭を形作らなかった。僕は東京に引っ越した今でも、大学の友人と離れたという実感がない。

だが、そうした実感のなさは、当たり前のことなのかもしれない。僕は、友人との距離がどれだけ離れたとしても、生活の仕方がどれだけ変わったとしても、彼らを思い出の中の存在にすることはないと確信しているからだ。これからも、僕らは互いに大人になりながら、尊敬しあうような友人であり続ける。僕の未来にも、大学で出会った沢山の友人は確実に存在している。そう思えるような友人を作れたのは、北海道大学に進学することを選んだ4年前の僕のおかげだ。4年前の自分、本当にありがとう。

そして、僕と大学生活で関わってくれた全ての人に多大なる感謝を。皆さんとの出会いが、確実に僕を人間的に大きく成長させてくれた。これから待つであろう困難も、大学生活で得た経験を矛にして、時に盾にして乗り越えていくつもりだ。きっと、これから一人ではどうにもならないことが沢山あるのだろう。ただ、それを一人で乗り越えようとするような孤独は、もう僕の中にはない。それくらい信頼できる人が、僕の周りには沢山いる。


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雪の舞う入学式から始まった大学生活の最終日、新千歳空港では雪が降っていた。僕の大学生活は雪から始まり、雪で終わるのだ。搭乗した大型の飛行機は高度をあげて、雪雲の中を潜っていく。厚い雲を突き抜けたとき、窓から、黄金に輝く夕日が望めた。


「どんな道を選んでも、それが逃げ道だって言われるような道でも、その先に延びる道の太さはこれまでと同じなの。同じだけの希望があるの。どんどん道が細くなっていったりなんか、絶対にしない」

朝井リョウ『世界地図の下書き』


2023.3.24 東京に向かう飛行機の窓から


・引用させていただきました


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