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【掌編小説】心の黒

 十一月の朝は仄暗い。午前五時のひやりと冷えた空気に刺されながら心の黒に呑まれない様に布団から這い出る。朝食は食べない。お金がないし、一度空腹の限界を通り越すと、胃もそれを諦める。万年閉じっぱなしのカーテンの内側に入り、窓をからりと僅かに開けて外の景色を眺める。朝靄が立ち込めている。透明なもやもやは不透明な未来を示している様。何もかもが先へ進むことを邪魔している気がしてしまう。そういう感覚に陥る。
 洗面所の電気が嫌に明るい。お湯を出したら湯気で鏡が見えなくなって、もうどうでもよくなって勘で髭を剃った。寝間着のまま歯磨きをしながらうろうろと出掛ける準備を済ます。歯磨きを終えると、また布団の上に転がった。心の中の黒いのが大きくざわつく。
 嫌だ辞めたい意味がない終わりたい楽しくないやりたくない死にたいけど死にたくない。
 なんで皆頑張れるの?
 出された処方箋は丸めて捨てた。続けたくないからぐちゃぐちゃにして棄てた。
 あぁあ、こんなに拗ねても誰も構ってくれないから、働かなきゃだよね。
 部屋干しのハンガーに手を掛けとっくに乾いた仕事着に袖を通す。家を出て、通勤電車までの道を歩く。シクラメンが咲いている。シクラメンの花言葉は「遠慮」、「気後れ」、「内気」、後ずさりしそうな薄ら暗い花言葉だ。
 考えた奴死ねばいいのにね?
 考えた奴はもうきっと死んでるよ。羨ましいよなぁ。妬ましいよなぁ。
 赤のシクラメンの花言葉は「嫉妬」。
 ぎりぎり間に合わないペースで歩いてしまっている。また処方箋が必要になる訳だけどもう要らないかな。白のシクラメンの花言葉は「綿密な判断」。
 踵を返す。アパートに戻りまだ温もりのある布団の中に潜り込み、恒例の一か八か電話をする。
「今日休みます」と言った途端に電話は切れ、僕の心の中は白と黒が激しく混ざり合い混乱したけれど、やがて正常に戻り思わずにやけた。シクラメンのもう一つの花言葉は、「はにかみ」。
 僕はにんまりして、そしてまた死にたいなぁと思うんだけど、空腹に限界がきて朝食を摂った。
 そして、天井を見つめて、

「誰か殺してくれないかなぁ」

 と、今日も心の黒に呑まれた。

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