プロティアン・キャリアと落合博満
衝撃のタイトルから始まった記事ですが、今回はキャリアについて。
皆さん「プロティアン・キャリア」という言葉を聞いたことがありますか?
個人の働き方が大きく変わっていく時代に新型コロナウィルスがさらに拍車をかけるようにして、キャリアの考え方も進化しています。
さらに私がキャリア領域の仕事をしているせいか、特にこの「プロティアン・キャリア」という言葉を聞く機会が増えてきました。
プロティアン・キャリアとは?
プロティアンの語源はギリシャ神話に登場する神・プロテウスのことで、環境によって火や水、獣に変わることが出来る「変幻自在」という意味です。
そしてプロティアン・キャリアとはアメリカの心理学者であるダグラス・T・ホールが唱えた理論です。
大雑把に説明すると、かつて「キャリア」というのは「組織」が主体であり、組織の中で個人がどのような道を歩んでいくかということに重点が置かれていました。
つまり「昇進」「権力」「地位」「給与」といったものが重要な価値観であり尺度だったのです。(ホール教授はこれを「伝統的キャリア」と呼んだ。)
しかしホール教授のプロティアン・キャリアはあくまでも主体を「組織」ではなく「個人」にあるとし、価値観は「昇進」「権力」ではなく個人の「自由」「成長」に置かれ、個人の心理的成功に重点を置いています。
主体があくまでも個人であるため、変幻自在に自らを変えていくことで、仕事や市場環境の変化に対応していくという考え方です。
※画像は一般社団法人プロティアン・キャリア協会HPより
大切なのは「アイデンティティ」と「変化対応力」。
このプロティアン・キャリアはまさに現代の働き方において重要な考え方といえます。
人生100年時代と言われる中で終身雇用は崩壊し、企業に依存する働き方ができなくなりつつあります。
こうした背景からプロティアンな生き方は非常に注目されており、あらゆるキャリア理論の中でも僕が大好きな理論でもあります。
落合博満って誰?
落合博満の詳細なプロフィールはWikipediaなどをご覧いただくのが良いですね。なにしろエピソードに事欠かない人物です。
少し抜粋しましょう。
落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身[注 1]の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督、野球解説者。血液型はO型である。選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ(巨人)・日本ハムファイターズの計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつ日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した。また20世紀最後・昭和最後の三冠王達成者でもある。2004年から2011年まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成している。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。(Wikipediaより)
プロ野球ファンなら誰もが知る偉大なバッターであり監督でもあります。
特に僕が熱狂的ファンである中日ドラゴンズには選手、監督、ゼネラルマネージャーとしても在籍し、監督時代はまさに「21世紀の中日ドラゴンズ黄金期」を作った張本人といえるでしょう。
息子は90年代バラエティでよく出ていた福嗣くん(今は声優)。奥さんは信子夫人。
落合博満のプロティアンな生き方
落合博満の経歴を振り返れば誰もが認める野球選手ですが、実はプロになるまでには紆余曲折があります。
地元秋田県での高校時代は体育会特有の上級生によるシゴきを嫌い、退部→チームメイトからの説得→野球部復帰を繰り返すこと計7回。
東洋大学に進学後もやはり体育会系の雰囲気に馴染めず半年で退部。そのまま大学も中退して帰郷。
ボウリング場でアルバイトをしながらプロボウラーを目指すも断念(本人曰くプロテスト受験の日にスピード違反で捕まって試験が受けられず諦めたとのこと)。
しかし落合の野球選手としてのセンスは周囲が認めるほどであり、恩師の勧めもあって社会人の東芝府中野球部へ進み、結果として千葉ロッテでプロの道へ。
ここまでは「センス溢れる野球少年(青年)の波乱万丈な人生」と表現すれば良いかもしれません。
しかし野球部退部やプロテスト断念といった「自己決定」を繰り返しながら、曲がりなりにも自分の道を突き進んだといえるでしょう。
プロ入り後のプロティアンな落合博満
選手としての落合博満の活躍ぶりについてはここで書くことは控えるとして、僕は彼が自ら選択してきたキャリア(野球人生)に興味があるんです。
打撃タイトル3冠王を獲得した1987年、恩師である稲尾監督が退任したことを受けて「自分はもうロッテにいる必要はない」と発言し、その年のオフに中日ドラゴンズへトレード移籍(この時の年俸は日本球界初の1億円超え)。
移籍後の7年間でホームラン王、打点王といったタイトルだけでなく1987年にはチームのリーグ優勝にも貢献。
契約更改の記者会見でマスコミに対して年俸が公表されることは今では当たり前だが、落合がまさにその先駆者であり有名な1億6500万円(いちろくご)の契約更改は「細かすぎて伝わらないモノマネ」などでも記憶にある人は多いだろう。(詳しくはYou Tubeで)
中日時代には年俸3億円プレーヤーとなるも、ここに安住しない落合はFA制度が出来た初年度に読売ジャイアンツへ。
リーグ優勝にも貢献し、43歳で打率3割、巨人の4番を務めたのは歴代最年長記録。
大抵の選手が「このまま巨人で現役引退までプレーする」ことを望むはず。
しかしその年オフに同じ一塁手の清原和博が移籍してきたことを受け、落合はパ・リーグの日本ハムへ移籍し(ダルビッシュも大谷もいない当時の日本ハムは間違いなく不人気球団)、2年間プレーしたのちに現役引退。
落合博満は紛れもないプロティアン・キャリアの体現者だった
身内びいきが過ぎてやや提灯記事のようになってしまいましたが、プロティアン・キャリアの話に戻しましょう。
落合博満はまさに「日本球界最高のバッター」というアイデンティティをバックボーンとしながら、自分が活躍し、心理的欲求を満たせる場所を「選んできた」のだと思います。
スターでありながら4球団を渡り歩いてきたケースは珍しく、引退後も安定した仕事を確保するために同一球団に残りたがる選手が多い中で、落合の経歴は異色と言っても良いくらいです(アメリカのメジャーリーグでは普通と言われています)。
中日の監督時代も他のコーチ陣の多くが中日OBでないことから批判するファンもいました。
しかしその声に負けることなく自らが追い求めるチーム作りを徹底し、2004年から8年間でリーグ1位、2位、1位、2位、3位、2位、1位、1位という黄金期を築き上げました。
インタビューではコーチ陣に対して、「どこの球団からでも声のかかるようなコーチにするぞ」と言い、実際にコーチ陣の多くはその後も他球団の主要ポストにつき、落合同様にプロティアンなキャリアを歩んでいます。
まとめ
プロ野球選手というのは実は個人事業主なので、「巨人一筋20年」とか「引退するまでこのチームで」といった考え方もあるものの、やはり本来は「自分が存在感を発揮しながら心理的満足が得られる環境を開拓していくべき」だと思います。
逆にファンは給料の良い他チームへ移籍する選手を「裏切り者」と揶揄することがありますが、それはあくまでも伝統的なキャリア観で、悪く表現するならば「雇われサラリーマン的発想」とも言えます。
特に最近は引退後の選手や、ダルビッシュなどの現役メジャー選手でさえもYou Tubeを始めたりSNSを活発に利用して発信していくなど、以前とは違ったキャリアを歩む野球選手が増えてきて、個人的には素晴らしいことだと考えています。
その先駆者は落合博満であり、今年で68歳になる彼の次なるキャリアに期待せずにはいられないのであります。
あ~中日に戻ってきてくれないかな。
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