永良新「時間少女《タイム・メイカー》」
◆作品紹介
※以下に縦組のpdfファイルを添付しておきますので、ご入用の方はこちらをお読みください。
1
都市を覆う〈魔凹〉の帳。
星空とオーロラの背景を時空ごと食い破るその黒穴の下には、フラードームで覆われた都市国家——〈タイムズ〉があった。そして、この都市の中心にそびえる〈クロック・タワー〉が放つ、宇宙の時間をそのまま質量にしたかのような存在的圧倒。
わたし、ブラック・ブレイク──通称BBは、タワーの調律室から、夕焼けの西日に晒されながらモニターをチェックしていた。画面に映し出されているのは我らが姫、〈タイム・メイカー〉——タムタムの心拍率だ。それを調律することがわたしたち〈タイム・キーパー〉の職能。
「121.0bpm/119.8bpm/120.3bpm/……」モニターが120.0bpmごとに数字を羅列してゆく。
室内のあちこちに点在するメトロノームが、同時にその音を共鳴させている。これらが奏でる一定のリズムは、都市の時間そのものと同期していた。
光線の明滅、交通する浮遊車たち──この都市国家にあるおよそすべての人工物が、タムの心拍と同期しているのだった。
しかし、その光線がわたしの目線を交差することはない。わたしの視線はただ一点、目の前のホロ・ディスプレイに向かって滝のように注がれていた。黒凹のような引力をもって。
しばらく画面を凝視していると、わたしは背後にアハトの気配を感じて、振り返る。彼の電子鴉な服装は、高層ビルのシルエットに水のように溶け込んでいた。瞳はいつも金属のような光沢を放っており、その言葉にはどこか、聞く者を支配しようとする響きがあった。
「タムの心拍。問題は……」アハトの言葉はいつも短い。
「安定している」とわたしは言って、「しかし、日に日に訓練が過酷になっていることが気になるな」
アハトは何も答えず、ただモニターをじっと見つめていた。銀縁のメガネをかけたその横顔は端正だが、表情はいかなる感情も表象していない。
「本人に、確認するか……」
「そうだな」
わたしはアハトの了承を得ると、調律室のドアをくぐり、そのディスプレイが映し出していた本物の訓練場へと移動した。そして奥の台座で胡座をかいているタムの側にかけよった。
タムの集中力には、わたしの中のBUDDAも目を見張るものがある。心拍の訓練をしている時の彼女の耳は、メトロノームの音だけを忠実に拾い上げ、他のいかなる雑音も消していた。ただ、それが無音になっているのか、滝行のような雑音でかき消されているのかはわからなかった。
不本意ではあるが、わたしはタムの肩をメトロノームとは違う179.0bpmのリズムでタ・タン、と叩いた。それが彼女のリズムを乱す、一番嫌いな素数のリズムだったからだ。
「BB……」
しばらくすると、彼女の瞼が睡眠から覚醒するかのようにゆるやかに開いた。
「おはよう、タム」
「いま、何時……」タムが訊く。
わたしは困惑した。
「それはお前が決めることじゃないか」
「そう……だね。ただ──」タムは困ったようにそう言うと、「ぼく、少し落ちていたみたい。タワーと通信するのも億劫だから、目合わせで時間を同期させて頂戴」
わたしは驚いた。タムが訓練中に眠ることはめずらしい。
「承知した。現在日時は時歴349年2月12日21時57──」わたしは秒針が頂点の位置に来るのを待ってから、「分」
その瞬間、歯車が噛み合うかのようなクリック音が鳴った。これはタムの中の時間が──標準時が調律されたことを示す音だ。本来であれば彼女の起床時間である毎朝午前9時ちょうどに都市じゅうに鳴り響く時報だった。もっとも、このような非常時の際は無音にしてあるのだが。
「──調律済。手間をかけて悪かったね、BB。寝起きの舞踏に付き合ってもらえるかな……」
「もちろん」
わたしはタムの手を取って、優しく引き起こした。すると彼女は少しふらつきながらも、曲芸のような健脚の足運びでメトロノームと心拍を合わせ始めた。軽やかな舞踏は、わたしの抑された情動にしっくりと重合していった。
社会科学的には、このようにして訓練を複眼的に重合させていくのが標準だ。わたしたち〈タイム・キーパー〉は、集中力と冷静さで規律し、タムの感情を保ち、導く。
その舞手の術を観測つつ、わたしはあることに気づいた。彼女の舞踏は、日増しにさまよいが目立つようになってきていた。精神があまりにも疲労に侵されているためか、わたしとの共振は重がちだった。そしてその朱い瞳から、たったひとしきり、わたしの方を直視したかと思えば、やがて見納めするように顔を伏せる。
彼女の精神状態がいつになく乱調に陥りつつあることを、わたしは理解した。
「タム……。止めたまえ」
わたしはタムの手を離して立ち去ろうとしたが、タムがわたしを掴み止めた。
「……ね、もう少しだけ」
その瞳にわたしは今にも120.0bpmの正弦波が消滅するのではないかと懸念した。
「タムは疲れたらしい。もう十分だろう」
「ビート失調は認められない。精錬から」アハトが言い渡す。その掌から、惨苛な訓練プログラムの予告が透けて見えた。
「待ちなさい、アハト」わたしは不安げな声で遮った。「タムは訓練に疲れているようだ。無理をさせるな」
「タムに休みはない」アハトは無表情で吐き捨てた。
「わかりました。それでも寡断を……」
「BB。ぼくは大丈夫」タムが途中で割り込んだ。彼女の瞳は麻薬に酔ったようにゆらめいていた。「ぼくの休息は、この都市全体を止めてしまう。それは概念的に──望ましくないことだから」
こうしてタムの決意を受け、アハトは改めて無帰還の命を下した。
「始めよ。アハト・プログラムを」
「了解しました」タムは咀嚼するように小さくうなずいた。するとその指先から、織り重なるサイバー・ダンスが紡がれた。
「……鼓は次の120.0」
ZEN流の腕の軌跡がゆらりと行き交った。それと同時に、中空を浮遊するメトロノームの振り子が、タイミングを合わせて空中を往復しはじめた。
「……タイム・スタディーNo.20」
タムの掌を開いたところにホログラムが現れる。そこに映し出されたのは、複雑に入り組む幾何学模様だった。そのフォルムは数秒ごとにグロテスクに変形を遂げた。
「解鍵」
タムが呟くと、模様は百八渦を巻いてからたちまち開かれた。その中には新たな模様、もしくはモジュールが潜んでいた。
こうしてタムの細胞ごとに、高度なプログラムが織り込まれていくのだった。しかし、彼女の体調が思わしくない今、状況は強行突入に近づきすぎていた。
「タム。十分だ」わたしは強く主張した。「今日はそれでいい」
「でも……」タムは曲がった口から、間を置いて言葉を紡ぎ出した。「ぼくは時間の盤目を刻む、そのまさしき存在そのものだ。休む時間などない——」
「タム……」
「安心して。この街には、ビートを刻み得るのはぼくしかいない。だから、ぼくなくしては秒時計も止まってしまうかもしれない。それはね……『概念的』に、天啓的であってはならない非情事なんだよ」
タムは宇宙空間から脱落した星のようで、美しい、寂しい影を落としていた。そして、空力の羅簾に現れた彼女の姿は、わたしたちが知る〈タイム・メイカー〉の立ち振る舞いとはかけ離れていた。
「BB。準備はいい……」タムが重たい瞼の向こうから、わたしを見つめた。
「……」わたしは無言でうなずいた。
ぼくは夢を見る。
アハトの号令に応じ、訓練プログラムが立ち上がる。ぼくの服に装着された装置から放射線が放たれると、身体はあっけないように躓を含んだ。
最初期のフェーズは危険さを孕む。ぼくの意識は、ビート調律プログラムによって血流やホルモンの分泌がコントロールされるからだ。競歩のステップから永劫回帰・無限、今や恐々の訓練が、ぼくの肉体を痺れさせてゆく。かすかに眩しい虚光に取り囲まれながら、彼女は徐々にその身体を内側から蝕まれていく。皮膚液状化の徴があり、骨がそれを押しのけながら嵌り出る細い漸層があった。それらの溶解具合は皮膜の分解やフラーレンの生成といった物理的な作用で説明されるけれど、はなから因果を持たぬ諦観的なプロセスに外ならなかった。
そのように、底無し竪坑にぼくは等閑に足を踏み入れ、同時に受難の涯てもない先へと向かった。
だけど、所詮その過程の晩節は知れた歴程に落ち着く。180bpmを越えて240bpm、300bpmとペースがアップする頃には、ぼくの瞼は閉じられ、ぼくの外殻は何の苦もなく赫々とした光を発し出す。硬質なタカラモノだけが、あらかた残された体内から軟調な皮から内臓といった組織の溶解状をもろに晒して浮かび上がる。やがて、その斑らの中からひとつの光景が露呈する。
それは、溶岩から出現したかの魔導な眼だ。
「……ゴツゴツ」
ぼくの片眼が——眼球がごろり、と酷く転がった。転がるたびに、キャリオアアイリスを取り巻く運動野の神経細胞が活性化して、視界がくっきりと明瞭になる。間違いなく、ターミナル・コントロールによって新たな視覚的経路が生み出されていた。いまのぼくの見る世界は読み直されたものだ。
今や、ぼくの目は宇宙の無数の可視的/不可視の情報を瞬時に同期し、解読できる能力を有していた。
単なる目に留まらない。
それは、リアルにぼくの精神そのものといってよい。
ぼくこそ時間の女主人。
そしてこの街で唯一、端的に宇宙を司る存在だ。
ぼくは繰り返し呟いた。
「Re: 121.8bpm……。Re: 121.8bpm……。Re: 121.8bpm……」
ぼくの息は昂じる興奮からくる陶酔といってよいほど風前の灯となっていた。
その中でほんの一瞥、ほんの一瞥だけ——BBの瞳を垣間することができた。
タムの瞼が開き、血走った瞳がこちらを向いた時。
わたしは彼女が透き通るように冷たい視線を持っていることに、幽かな恍惚を感じて目を伏せた。太陽の存在に征服されるように。
わたしはタムの両目の上にそっと手のひらを当て、それが閉じたことを確認すると、
「タムの代理を務める」
「……というと」
「問題ない。わたしはタムの心拍リズムを熟知している。少なくとも48時間は代理を務められる」
タムはわたしに寄り掛かったまま、呼吸は穏やかな眠りの調べとなり、この腕の中で気持ちよさそうに眠りについた。
わたしは静かにタムを床に寝かせると、周波数同期のためのヘッドフォンを装着した。すると、タムの安らかな心拍音がわたしの体内に染み渡ってくる。わたしはそのリズムに精神を合わせながら、メトロノームに合わせてスロ〜に呼吸を整えていった。
次第に、わたし自身がその周期を体現するようになり、都市の明かりがわたしの心拍と完全に同調していく様子が肌で感じ取れた。タムの役割を確実に継承することができた。
しばらくしてアハトが現れ、タムの具合をうかがった。彼にタムの休息を伝え、一時的にわたしがその役割を代行することを告げた。アハトはしばし考え込むと、渋々ながらも承知した様子だった。
「長くは無理だぞ。BB」
「わかっている。できるかぎりで」
アハトは眉をひそめたが、うなずき、その場を離れていった。一時的とはいえ、わたしがタムの代理を務めることになるとは考えもしなかっただろう。しかし、事態はわたしにもタムにも刻一刻と厳しさを増していく。
メトロノームの音色に導かれるまま、わたしはタムの隣で正座し、頭の中を心拍の波に任せた。この都市の動力源になるということは、単に時計の役割を果たすだけではない。この〈タイムズ〉の住人すべての営みが、この鼓動リズムに従っているのだから。
タムの肩を力強く叩き起こしたくなる気持ちを抑え、わたしは徐々に安らかな気分に落ち着いていった。大局を見渡す余裕さえ生まれてくる。そう、目の前の子を想うばかりでなく、この都市全体を思わねばならない——時に冷徹であり、時に慈愛を持たねばならぬ。
夜が明けるまで、わたしはその役割を全うした。途切れることなく、鼓動は街路の至る所に染み渡っていった。静かな調波が、どこまでも途切れることなく続いていく。
そして翌朝、タムの目が静かに開いた時、わたしはほっとした気持ちと同時に、またもうひとつ別の決意を胸に抱いていた。
そこは墓所のような室内。あらゆる物音が喉元でくぐもっているかのような無音空間。ただ中心部には〈メトロノーマ〉の置かれたステージがあり、そこだけリズムの呼吸が絶えずに吐き出されていた。
——崇高。
ステージの正面で、わたしの膝枕の上で寝ていたタムは目を覚ました。その纏う白銀の装束。心臓のように周期的に散乱する輝媛の光。しかし目尻には、たしかな疲労の兆候が醗酵している。
「タム。起きたか」
わたしが呼びかけると、タムはゆっくりと目を開いた。視線はボーっと宙を舞っている。
「ああ、BB……」タムは微動だにしない。「すまない。ぼくはリズムから滑落した。今の今まで叩き直しを試みていて……」
間を空けずに、タムは胡座から立ち上がると、タワーの外を見上げた。
「……見ろ、アレに」
彼女が指差したのは、タワーの高所にある巨大な音刃のメトロノームだった。その振り子は、他の小さな機械たちとは違う緩慢なリズムで、刃を振っていた。
「あの振り幅は90秒。つまり1.5分に一振れの周期だ。タワーの正座標がそれほど遅いリズムを刻んでいるというのは異常だね」
タムはわたしにそう呻き、再び胡座に組み直すと目を閉じた。心因性な態勢を再構築し始める。
「BB。ぼくにとって時間とは何だと思う……」
「──」わたしは答えに窮した。
「見えざるなリズム。万物を賦活する身体性。音無き叩き音。聞こえない靴音——それがぼくの役割だ。この室内で絶えずリズムを自らの身心に叩き付けることによってのみ、外部への影響が及ぶという」
「そうだな。お前が居なくなったら、時間自体が消失しかねん」
「でも、今のぼくはその基盤自体を失っている。心拍に我を見失い、リズムに酔ってしまったりするんだ」すると、タムは言いにくそうに、「この訓練を続けるのは、無理なんじゃないかと……」
わたしは即答した。
「はっきり言えよ。脱獄、したいんじゃないのか……」
わたしの質問に、タムはこくり、とうなずいた。
「そうだ。ぼく、少しだけ離れてみたい。このタワーから。この街から」
「しかし、行くあてはあるのか……」
「ない。ただ安息を得たい」
タムの願いを聞いて、わたしの中に矛盾した思いが生まれた。ひとつは、タムを何があってもアハトの支配から守らねばならないという強い義務感。もうひとつは、タムと自由を手に入れ、この巨大な都市を脱して二人きりの世界を作りたいという、願望に近い気持ち。前者は職務として課された責任、後者は男としての本心からくるものだった。
この二つの思いを天秤にかけながら、わたしはタムを見つめた。タワーの主任でありながら、同時に自由を求める少女。矛盾めいた存在であるタムだが、それでもわたしの心を惹きつける何かがある。正気を失いかけていた頃、タムの子供じみた素直さが、わたしを現実に引き戻してくれたのだ。
正直、思ってしまった——わたしは、タムを独り占めしたい。
「……わかった」わたしは巨大な扉の方を振り返りながら、ため息をついた。「準備しよう。外部に脱出するぞ」
2
このタワーの最果てまで螺旋する階段の先っぽ。そこが事象の地平面。時間が定常でなくなる境界線だ。その線上に、かつての〈タイム・メイカー〉たちが引退の地として建設した樹上都市がある。そこへ連れて行く以外に、タムの求める癒しは用意できない。
タムの銀糸の髪を、そっと撫でながら。
タムは小首を傾げた。
「ありがとう、BB」
「おう。行こう。果ての界まで」
まるまる一週間をかけて、わたしとタムは脱出の綿密な計画を練り上げた。深夜のある時間に、タワーの頂上から伸びる螺旋階段を這い上がり、同心円軌道の最果てへと赴くというものだった。
アハトをはじめとする他のキーパー達に気づかれぬよう、わたしたちは夜な夜な秘密の打ち合わせを重ねた。計画を実行する前日の夜、タムはこう切り出した。
「BB、ホントにこれでいいの……」
「ああ、行くしかない」
「でも、わたしがいなくなったらこの都市は……」
「大丈夫だ」
わたしはタムの頬に手を添え、そっと撫でた。
「お前は重荷を下ろす。これ以上負担をかけるつもりはない。都市は崩壊するかもしれないが、それでもお前を守らねばならない」
「BB……」
タムはわたしを見つめ、そのまま抱き締めてきた。わたしもそれに応えるように体を寄せた。共に肌を重ね、二人の心拍が共鳴するのを感じた。
「約束する。必ずお前を連れ出してみせる」
「うん……信じてる」
二人はそのまましばらく抱き合ったままでいた。明日が来れば、二人きりの新しい世界が待っている。いかなる困難があろうとも、乗り越えていく決意を、ここに誓った。
翌深夜、タムの不在に気づかれぬよう、わたしはアハトらに嘘の口実を設けた。すると同時にタムは、タワーの頂点にある非常口から這い上がり、螺旋階段を昇り始めた。
階段は金属製で、踏面がグレーチングになっている。下界の明かりがそこからもれるたび、タムの影がくねくね蠢いては宙を舞う。
ひたすらにしか昇り続けられない狭く閉ざされた空間に、タムはわずかに暑気を覚えた。が、そこは上に伸びるにつれ、冷たさに変わっていく。
やがてタムは、螺旋を登りつくした頂点に辿り着いた。足元に異界が広がっている。
360度、視界が开かれていた。巨大な肉眼で宙景を見渡せるようになっていた。ドーム内の人口環境から解放された、まさに裸空だ。
するとその視界の中央に、巨大な破牌が黒々と存在していた。
事象の地平線まであと少し。階段の最果てが、タムとわたしの新天地なのだ。その闇色の地平は以前観測したことのない不可侵な大きさを持っていたが、そういった圧迫感をタムはかえって解放感に感じていた。
タムは振り返ると、わたしが螺旋階段を這ってくる姿を視界に収めた。という事はわたしがすでにアハトから離脱したということだ。
ようやくわたしは頂上に到着し、タムに近付く。
「随分と高く上がってきたものだな」
螺旋階段は下りれば下りるほど、喉元の遠くにタワーの心音が響いてくる。わたしたちはそのリズムに合わせて一歩ずつ足を進めていった。
「あの頃は本当に楽だったな」
タムが夜の街を見下ろしながら呟いた。舷窓からの月明かりに、その鬢が銀飾りのように煌めいている。
「陽気な日々さ。もう二度と戻れない日々が懐かしいよ」
「ああ、そうだな」
わたしは渋い返事をしながら、胸中で昔を思い返していた。
タムがこの〈タイムズ〉に現れたのは18年前のこと。その頃の彼女はまだ童女で、不器用な動作に溢れていた。リズムを乱すたびに、まわりのメトロノームが発狂するので、ちくいち矯正する必要があった。
生身の子どもに、あれほど専門的なダンス・リズミックを植付するのは並々ならぬ努力を要した。わたしもアハトに付き添いながら幾度となく習熟訓練を行った。当時のタムの素顔は、今とはまるで違っていた。
「やがて大層の座につくための準備が始まる頃には、 お前はもうリズムの権化と化していたよ。ああ見えてひとりでに恐ろしい決め細やかさだった」
「誇張じゃない。必要以上に絶頂期まで高め上げられて、いわば挫けそうになったくらいさ」
タムは往時を偲んで、わたしにも感慨めいた声を投げかけてくる。
「でも、あの頃は何もかもが新鮮で、世界がキラキラと輝いているように見えたものだった。不器用な動作の何処かに、笑えるほど滑稽なリズムが隠れていて。……だからこそ、あの、愚息な日々が恋しくなるんだ」
タムは消え入りそうな声でそう呟いた。そしてわたしもまた、胸の内に巣食う陰鬱な感情に気づかされた。訓練に耽る日々がいつしか、この地上の楽園から遠ざかる日々へと変わっていったことが恥ずかしかった。
「ああ。だがこの闇に嚙まれればもう戻れない。元の世界に引き返す術はない」
「それでも……行こう。あの暗闇に包まれるところまで」
タムはそう宣言すると、わたしの手を取った。二人は事象の地平線へと向けて歩き出した。しかし、わたしたちの姿は重複し、蝕られてゆく。
夜の訪れと共に、タワーの内部は絶海に沈むように静寂に包まれた。窓の外、視界いっぱいの空間を埋め尽くす星雲は、染を孕んだ予兆のようでもあった。その層塗りし重ねられる彩雲の向うには、やがて現れる壮絶な全風景があると思しい。
しかし、今はそれを偲ぶ余裕はない。わたしたちはただ、逃げ場を求めて没入していた。
深夜のタワーから一本の螺旋階段が天空へと伸びている。それが我々が発見した脱出路だった。階段はゆるく上り口を塞ぐオレンジ色の球体へと向かっていた。ようやく最果ての出口に達したと思ったが、さほどでもない。オレンジの球体の上端には、別の階段の続きが待ち構えていた。
真空の空間を背景に螺旋階段は伸びていた。まるで、盲伽が天空を螺旋するかのようだ。我々はゆっくりとその中を遡行した。一歩、一歩とともに、窓の外の星雲は濃厚さを増していった。そしてその彩雲の向こうに、遂に〈魔凹〉の顕現が垣間見えて来る。その引力場のたわみから、我々は目的地に近づいていることを感じ取った。
階段をさらに上がると、中央に浮かぶ円形の入り口があった。法則無く並ぶコンクリートの荒らぶりに囲まれたその戸口は、内部に入る部屋すらも存在しないかのように虚構に見えた。しかしそこには、まるで映し鏡のように揺らぐ莫大な球体があった。
わたしとタムはその入り口を凝視することしかできなかった。あるいは、その向こうは別世界につながっているのかもしれないし、単に落下への入り口かもしれない。
タムが静かに口を開いた。
「……落ちるの……」
「わからん」わたしはそう答えた。
「球体の向こう側は、見えるかい……」タムは背伸びをして覗き込む。
「期待はできない。しかし見えるかもしれん。危険を承知で――」
間を置いて、わたしは自問した。
「お前はどうするんだ……」
タムは黙して立っていた。
「行くよ」やがて、そう言って。「用意はできている。わたしには、この道しかない」
そうしてわたしたちは、不思議な入り口を抉って通り抜けた。
そして、その先にあったものは――高さ数十メートルに及ぶ巨人の落書きだった。
それは、一つの島の廃墟に色濃く彫り込まれたイメージ・キャンバスだった。まるで深海の海底火山が謳ったように、そこには文字とライン・アートの当惹な線刻が全面的に描かれていた。
島を走る無数の鎖、それは鋼の条理の魔法陣となって、つややかな風景を囲い込んでいた。その先で連なる島々は、いずれも黙したまま独立した存在感を携えている。
まるで太陽の子供がこの植民地に遺した、ヤシとサボテンを主体としたグラフィックだった。
まさに終末の渚。ドーナツ惑星の可能世界。魂の錬金術の臨界地点が残した、気脈の断片だった。
黒い地平には、物質無き暗が存在していた。わたしたちの影は、その追憶にのみ込まれ、薄れていく。
ただ、二人の連縄は、徐々にそれを離れていく。遂にわたしたちはその一刻を完全に抜け出し、異界を得ることができた。
そこには樹上都市があり、前時代の遺構からなるコテージが立っていた。お椀形の妙な造りをした建物に呼び込まれるようにして、わたしとタムはそこに足を踏み入れた。
屋内はきれいに掃除されており、おそらくもう長い年月使われていない。しかし、設備はかろうじて使える状態に保たれていた。パイプの下から蒸気が吹き出す音が聞こえ、隅からはホコリがわずかに靡く。時代遅れのコンピューター〈Windows 98〉もそこにあった。
「こんなところで一体何を……」
タムがそう呟くと、わたしはこのコテージの正体に思い至った。
「気付いたか、タム。これは昔の時代の先人たちの隠れ家だ」
かつての〈タイムズ〉の危機的状況下で彼らが隠れた避難所なのだ。それが明らかになると同時に、わたしとタムはここで新しい時間を刻めると実感した。
タムは珍しそうに周りの設備を見回しながら、わたしに問うた。
「でも、これで本当に大丈夫なの……。外の世界との連絡はつくのかな……」
わたしは窓の外、遠くに霞のかかった黒い穴を見やりながら答えた。
「つく。昔はこの場所でも都市と通信が可能だったらしい」
するとタムは目を見開き、わたしを見つめ返した。
「だったら……外の世界の情報が手に入るんだね」
「おそらくそうだろう」
「なら、このコテージで過ごそう。ここなら外の世界とも切り離されない」
そう言ってタムはほっとした表情を浮かべた。わたしもそれにうなずいた。ここなら永劫の時を過ごせるし、外の世界の有り様も窺い知ることができるだろう。
二人で気を取り直し、このコテージでゆっくり休息をとることにした。生活の日課を決め、料理をし、コテージ内の設備を使いこなすことから始める。お代わりの時が再来しても、この場所で過ごせるならばそれでよい。
タムがコンピューター〈Windows 98〉の電源を入れた時、いくつかのデータウィンドウがずらりと並んだ。お返事の音声が流れ始めた。
【過去から未来へ、物語を紡ぐこのプログラム】続けて、【ユーザー認証。IDとPASSWORDを口にしてください】
タムは驚いた様子でわたしを振り返った。まるで生きているかのようなナビゲーションだった。警戒しながらもタムは入力を始める。
「来たばかりなの」
【そうか。なのであれば鏡にかける言葉は決まっている】
「……うーん」タムは少し考えてから、「鏡よ鏡」
【正解。ようこそ〈タイム・メイカー〉——タムタム】
「おはよう。この場所は一体どこなの……」
すると画面上に文字が流れた。
【ここは一旦放棄された停革の場所だ。かつては小さな時間の躊躇があり、今度はきみたちの時間がめぐってくるのだろう】
「停革……。それって何……」
【事の止まり所。起きる事象の終わりだ。ここには未来は無く、たゆたう現在しかない】
「なるほど……」
タムは少し考え込むと、こう打ち込んだ。
「この中で、ぼくたちは何をすればいいの……」
【好きなようにすればいい。時間のない場所では、あれこれと時を気にすることは無用だ】
「でも、外の世界はどうなってるの……」
【これからはこの場所が、きみたちの全世界になる。外の情報は次第に入ってくるだろうが、反対に影響を外に与えることはできなくなるだろう】
タムはしばし黙り込んでから、答えた。
「わかった。ぼくはきっと長い時間が過ごせると思う。あの闇の向こうでは、時間が無限に過ぎていくのかもしれないけど」
【時間など関係ない。重要なのは己が時間を生きるか生きないか。それだけだ】
「……そうだね。ありがとう、ぼくの存在がわかった気がする」
タムはそう呟くと、ディスプレイの電源を落とした。その顔には決意の色があった。
3
ゲートウェイのようでもある山荘には、はしごロフトというべき高さの四階建てが年輪状に重なって据えられていた。物影はないものの、窓ガラスは綺麗に磨き上げられて、明かりが灯っている。中を見ると部屋にはアンティークの調度品が豊かに飾られ、居候していた〈タイム・メイカー〉の退職後の生活を匂わせていた。
朽ち果てたビル街の中央にあるこのコテージから、周辺の空間はクロノスパンによって時間が伸縮しているようだった。
コテージの前に茂った木々。はるかに見える都市の空からは、スピード重力が飛散する。あたかも空気の塊りが水のように躍動しているように見える。しなだれかかる時の流れは、瞳の錯覚なのか、実際にゆっくりと流れているのかはわからなかった。
都市の風景は見る向きによって、いくつもの偏差が生まれていた。ガレキから立ち上る塵の動きは均一でなく、物質と同相をなしている時の間隔が変則的だった。
わたしは、タムをこの邸宅に案内するなり時相が大圏を描き、そのことを理解してくれるだろうと考えていた。実際その通りだった。
この安息の地は、〈タイムズ〉から外れてはいるが、そこから都市を見れば地球の自転に合わせて時間が転がっているように見えた。自分の時間はなく、しかしながら公共の時間の足取りを見守る境地があった。
わたしとタムは共にこの地で蜜月を過ごした。
数週間後。
〈Windows 98〉のデスクトップ画面の前面に、より大きなディスプレイが立ち上がり、その上にメッセンジャーの告知が映し出された。
【通知:新着メッセージ】
「どの回線から来たのかはわからんが、明らかに外部からの連絡だ」わたしは小声でそうつぶやいた。
それからメッセージの中身を開く。
【アハト>>時間支配権を掌握した_】
「……チッ」差し出し人の名前を見て、わたしは舌打ちをした。
【:逃がれまい。いずこにいたとて、貴様らは時間の檻から逃れられまい_】
【:時計を右廻りに世界は動き続ける。だがその時間はもはや、お前たちのものではない_】
【:逃げ場はない。いずこにいたとて、貴様らは時間の檻から逃れられまい_】
アハトの脅しに満ちたメッセージを読み終えると、タムの表情が険しくなった。
「BB。わたしたち、どうすれば……」
そう言って、タムはウィンドウの外を見やった。
途方もない広がりの中で、〈タイムズ〉の高層建築群が、遥かかなたにちらちらと視界に入った。まるで蝕の斑点のように。
「こんなところまで来て、逃げ場がないって……ぼくは信じられない……」
タムの眉間に怒りの皺が寄せられた。静かだったはずの空間に、かすかな共鳴音が響き渡る。わたしは考えていたが、タムがすかさず、
「BB。早く行こう。アハトを止めるんだ」
「わかった」
わたしたちはコテージを後にした。
螺旋階段の最中あたりから、下の街路を意識的に見下ろす。
遠くのタワー越しに見えた街並みは、もはや正常な時空間を保っていなかった。高層ビル群のいくつかは、ねじれたり歪んだり、あるいは蛇行するように折れ曲がっていた。時計の針さえも、止まってしまっているのか、宙を泳いでいるのかわからなくなっていた。
時間の沼地に呑み込まれた街並みを見つめながら、時折タムの心拍数が次第に落ち着いてくるのを感じ取った。
この時点でタムが理解していたのは、もはや時間が通常の意味を失っていたということ。そしてこの秩序の乱れに、虫の居所がないようにアハトの陰謀が潜んでいることだろう。
「さて……。ライディーン・モード……」
タムが独り言をつぶやいた。間をおいてから、あらためてわたしに言った。
「BB。時間がゆがんでしまったあの街を超え、今一度〈クロック・タワー〉へ戻らないと。そうしないとアハトの暴虐を止められない」
そう聞いて、わたしもうなずいた。
赫々たる感懐と共に、わたしたちの落下の時が訪れていた。
掌を合わせ、タムの腕を取る。
ゆっくりと視線を合わせ、お互いの気配をうかがう。
断片化された時空を縫うように、わたしとタムは抱き合ったまま、螺旋階段の中央へ、身を投げ出した。
鳥の群れがうねりを描くような重力の海に身を委ねて、落下する。風が鼓膜を掠め、内耳に轟音が充満していく。
しかし、恐怖はない。わたしとタムは、互いの瞳に射した無限遠点を見つめている。そして、時計の秒針のように、規則正しいリズムを刻みながら、秒読みをするように——。
「一蓮托生で行こう」
タムは即座にわたしの手を握り返した。120.0bpmの詠唱。
「3、2、1——」
わたしたちは着地の瞬間を共有し、無事、タワーの頂上へ羽根のように着地した。
そして、あらためて〈タイムズ〉を見渡す。鉛色の雲が荒れ狂い、雷光が真昼の明るさを奪っていた。時間は断片化され、あちこちで異様な現象が起こっていた。秒針が逆回転したり、人々の動きが早送りになったり、あるいは一瞬のうちに老いさらばえたりしている。
「目にもとまらぬ速度で進む。来るべきときが迫っている……」
タムがつぶやくと、わたしも空を見上げる。
「ああ。やはり時間は狂わされた。アハトの仕業だろう」
わたしがうなずくと、タムは駆け出した。
「急ごう、BB。時間破綻は街のいたるところに広がっている」
その言葉に背中を押され、わたしも彼女の後を追った。われわれは〈コントロール・ルーム〉を目指す。
ここでアハトを止めなければ、取り返しがつかない。わたしたちは覚悟した。目指すはひとつ——タワー最上階の司令室だ。
〈コントロール・ルーム〉の大扉を蹴破り、中に飛び込んだ瞬間、目の前の光景にわたしは絶句した。
まるで、殉教者の亡骸を無造作に詰め込んだかのような恐怖の光景。大広間は歪んだ鏡のような異様な風景が広がっていた。 断片化した時間軸が複雑に絡み合い、過去と未来の交差点と化していた。
アハトはその中央に立ち、傲慢な笑みを浮かべていた。
「来たか、罰当どもが」アハトが高笑いする。「この世界の支配者は、もはやわたしだ。第三王の座は揺るぎない」
アハトは嗜虐的な笑みを深めた。わたしが問う。
「どういうことだ、アハト。この混沌は一体……」
「どういうことも何も、お前らには負けないということだ。このタワーも、この街も、タムの司る時間も、すべて我が手中にある」
わたしはその言葉に歯を噛み締めた。「アハト……。お前がこの異常事態の元凶か」
「わかってないなァ」アハトの眼が光る。「この世界の時間秩序が崩壊しつつあることは事実。だがそれは、この街が生まれた時から宿命づけられていたことだ」
「なんだと……」
アハトは得意気に語り始めた。
「この〈タイムズ〉の成り立ちを考えてみろ。時間の指標となる〈タイム・メイカー〉がひとりしかいない。その人物に何かあれば、たちまち街は混沌に陥る。つまりこの体制自体が——不安定なのだッ」
アハトは一歩前に出ると、断片化された時空の只中で両腕を大きく広げた。
「だからこそオレは、街の全住民を〈タイム・メイカー〉とし、時を刻む並列的な体制——〈アーキタイム〉を築こうとしている。それこそが、この街を真に永遠のものとする唯一の方法だ」
その言葉にわたしは絶句し、タムの目が見開かれるのがわかった。
街の全員を〈タイム・メイカー〉に……。そんなことが可能なのか。いや、それ以前に——。
「全員が心拍を強制されるだって……。そんなの——そんなのは全体主義だ。個が失われるッ」
「個などもはや意味を為さない。大切なのは〈タイムズ〉という集合体の存続だけだ」
「ふざけるなッ」わたしは怒りに震える声で叫んだ。「生きるということは、各人が自分の時を生きることだ。それを奪うことこそ、最大の悪だッ」
「単純な男だな、BB。お前には街を守るという視点が欠けている。この街のために生誕したタムを、私欲のために奪い去ろうとしているのはお前の方だ」
その言葉に、わたしは言い返せなくなった。アハトの言うことは、ある意味では正論だからだ。街全体の秩序と、タムひとりの幸せ——天秤にかければ、前者を取るべきなのかもしれない。
だが、タムは大きく首を振った。
「違う。ぼくは街のために生きているわけじゃない」
「タム……」
「街を守るのも大切だけど、ぼく自身の人生や、BBとの絆を大切にすることだってある。幸福は、自分で選び取るものだ。それを他者に決められたくはないッ」
その凛とした言葉に、わたしの迷いは雲散霧消した。そうだ。タムの言う通りだ。生き方は、自分で決めるべきなのだ。そう再確認した時、わたしの中で何かが弾けるのを直感した。
「アハト……。理るッ」
「わかったよ」
わたしの宣戦布告と共に、アハトが手を振り上げ、指を鳴らした。
途端、アハト以外のすべてが膠着し、動きを止める。まるで、ビデオを一時停止したかのようだった。
「これが真の支配だ。時の流れさえ、この手の中だ。お前たちなど歯牙にもかけん」
アハトは勝ち誇ったように言う。だが、わたしはそれを振り切るように歩み出た。
「わからないよ」
「愚か者が。死者にしてやろう」
アハトの指が再び鳴った。時がふたたび動き始める。突如、あたり一面に無数の蒼い光の粒が現れる。まるで宇宙のように煌めいていた。
「アハト、それは……」タムが息を呑む。
「そう、時間因子だ。オレは時の粒子そのものを操る。お前たちはもはや敵わないッ」
アハトは勝利を確信し、高笑いした。だが、BBとタムは目配せをすると共に、時間因子の海へと飛び込んだ。
「な——」アハトの声が遠くなる。「なにをする気だ……」
時の粒子が舞い散る異空間。そこでは、過去と未来が交錯し、現実が歪む異形の光景が広がっていた。わたしとタムは、その中に潜む謎を解きながら、前へ前へと進んでいく。
「BB、ここは一体……」
「並行世界だろうな。現実にありうる無限の可能性が同時に存在する、夢と現の狭間だ」
「そうだったんだ。でも、ここでアハトを倒す手立ては……」
「手懸かりを探すしかない。時の流れを正常に戻すカギとなる何かを」
わたしたちは時間因子の海を遊泳しながら、答えを求めて彷徨った。宙を舞う時の欠片は、ときに過去を映し、ときに未来を語る。わたしとタムは幾多ある時間の狭間をくぐり抜けながら、冷静に観察を続けた。
「ねえ、BB。あそこ……」
タムが遠くを指差す。そこには、無数の時間因子が集中している、一つの巨大な渦が見えてきた。
「あれは、時の特異点…………」
「どうやら、アハトが生み出した時空の歪みの中心点のようだね」
そこでタムは突然、あることを思い出して言った。
「そういえば、〈Windows 98〉が教えてくれたことがある」
「ミラー……」わたしはつぶやく。
タムが頷いた。
「そう。ミラーは鏡のこと。鏡は鏡像を生み出すけど、それらが互いに反射し合うことで、万華鏡のような複雑な模様が生まれる」
「なるほど。でもそれがどうかしたのか……」
「概念的なアイデアだけど、時間の欠片を同じようにうまく反射させれば、もしかしたら……」
タムの言葉に、わたしは全てを悟った。
「——黒穴を創成できるかもしれない」
その瞬間、渦の中心から光柱が昇った。突如、アハトの狂気を帯びた叫声が響く。
「何を考えているのかは知らんが、そこまでだ! 二度と時を越えることは叶わぬ」
姿を現したアハトは時間因子を集中させ、わたしたちに向かって放射した。だが、わたしとタムは時間因子の流れをかいくぐりながら、時の欠片をはじき飛ばし、ぶつけ合い、共鳴させていく。
「今だ、BBッ」
タムの叫びと共に、時間因子が一点へと集中した。
刹那、別の時空が生まれる。
「時の特異点の反転……」
アハトの声が狼狽する。
黒穴の始点がそこにあった。アハトが生み出した特異点が、時の海を呑み込む。
「こんなはずではぁァアッ」
すべてを無に帰す特異点は慟哭するアハト自身でさえも引き裂いてしまった。
われわれもまた、その暴渦に飲み込まれていった。
意識が遠のく中、わたしはタムの手を、強く握り締めていた。
4
すべてが消え去った。
闇の中、わたしとタムは抱き合っていた。
「タム、無事か……」
「……ああ。生きてる。そして、街に自由が戻った」
遠くの方で、〈タイムズ〉の明かりが瞬いているのが見える。再び動き始めた時の流れ。だがそれは、タムの役目を必要としない世界だった。
わたしたちは、役目を終えたのだ。
「BBのおかげだよ。わたしには何もできなかった」
「いや、お前の閃きがなければ、勝てなかった」
お互いを讃え合う。
その時、まばゆい光に包まれる。
「これは、ホワイトホール……」
白く、まっさらな世界。
そこには何もない。
だが、わたしたちがいる。
もう二度と引き裂かれることのない、わたしとタム。
「ねえ、BB。ここには何もないね」
「……いや」わたしは言う。「お前がいる。タムさえいればそれでいい」
タムの微笑みに、わたしも笑顔を返す。
「BBは、ずっとわたしのこと、愛してくれる……」
「永遠に。この世界の果てまでも」
タムが頬を赤らめる。
「概念的に嬉しいな」タムは続けて、「きっと……お腹すいちゃうね」
「平気だ。ここにいれば食べ物もいらない」
「そっか。ずっと二人でいられるんだね」
「ああ。ずっとだ」
わたしはタムを抱きしめる。
「……愛してる、BB」
「ああ、わたしもだ。お前を愛している」
時の果て。
わたしとタムと、愛だけがある場所。
「ねえ、BB」タムが潤んだ瞳で見上げてくる。「キスして……」
わたしは答える代わりに、唇を重ねた。
触れ合う唇。
交わす熱い吐息。
ゆっくりと、何度も。
口づける度に、愛が深まっていく。
「んっ、BB……」
いつの間にか、タムの吐息が熱を帯びる。
わたしの指が、タムの肌をなぞり始めた。
「ああ、タム……」
魂が震えるのを感じる。
ただ感じ合う、わたしとタム。
終わることのない恍惚に、飲み込まれていく。
世界の理からは外れてしまったけれど、それでいい。
まどろみの中でさえ、タムを抱き続ける。
これから先、幾億光年もの時を超えて。
刻むというのも、皮肉な話だが。
もはや、時計の概念など、どこにもない。
秒針は消えた。
——大団円。
◆作者プロフィール
*次回作の公開は2024年3月20日(水)18:00を予定しています。
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