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日本語と英語のはざまで

私は日本で生まれて日本で育ち、日本語を母語としている。夢を見るのも日本語、掲示板で一番最初に目がいくのも日本語、熱いものに触った時に咄嗟に出るのも日本語だ。ただ、幼少期に少し英語圏に住んでいたことから、ネイティブほどではないものの英語が話せる。また日本で高校まで通った後にアメリカの大学に留学したため、初めてアカデミックな世界に触れたのは英語を通じてで、論文などのきちんとした文章を書く訓練は英語で受けた。

この妙にチグハグな言語環境のせいか、私の言語能力は、二つの言語の間で微妙にスプリットしている。一つの言語を主に使う人なら、その言語に集中して能力が発達するところを、二つの言語で部分的に分離して成長してしまったようなのだ。

例えば、日本語の方が楽に話せるため、普段の生活で日本語を話しているときに単語に詰まることはあまりない。一方で英語だと、ちょいちょい立ち止まって「えっと、なんだっけ、あの単語」など話している相手を待たせないといけないことがある。

ただ文章を書く場面になると、英語のほうが第二言語としてみっちり文法を叩き込まれ、大学の論文を死ぬほど書かされたおかげで、日本語よりも何だか楽だったりして、日本語の文章は正直まともに書けているか自信がない。

特に、この文章による能力の棲み分けは最近ちょっと課題に感じている。ネイティブだからか分からないが、日本語できっちり正確な文章をどう組み立てたらいいのか分からず、つい話しているように書いてしまって、推敲がうまくできないことがある。

また友人とも、英語で話しているときは日本語の表現が使えないことをもどかしく感じ、日本語で話しているときは英語の表現を訳して使った挙句訳の分からない文章になってしまったりと、なんだか中途半端だと思うことがある。

もちろん元々日本語がネイティブなので、日本語で発達すべきだったところがちょっと英語に吸い取られているような感じなのだが、今後も、きっと、私はこの二言語の間で生きていくのだと思う。

ほぼ日本語しか使えなかった、アメリカに行く前は、母国からの逃走を夢見ていた。そのころの私は日本の常識、協調圧力、実家、制服、すべてにうんざりしていた。言語も人も文化も何もかもが違う場所でゼロからやり直すことにしか、私は望みを託せなかった。

当時、18歳の自分が、そこまで明確に自分の逃走願望を理解していたとは思わない。ただアメリカへの強烈な憧れと、一刻でも早く飛行機に乗りたい、どこか遠くに行きたい、という思いに駆られていた。日本に残していくのが恋しいと思ったのは、愛犬と友人たちだけだった。

そうやって荷物を詰め、羽田で飛行機に乗りこみ、ANA便が離陸する時に、私は母国に日本語を置き去りにしていった。

アメリカの大学で、私の英語では授業にも周りの人の雑談にさえもついていけない!とわかった時にはもう遅かったが、それでもいい、私はなんとかして英語で生きていけるようになるんだ、と思うくらいには、私の決心は固かった。私はアメリカの大学で、他のアメリカ人の学生に英語の論文の書き方を指導するチューターにまでなった。そして文学を専攻して卒業した。

言語は、時に、他の世界への窓口になる。英語が私に見せてくれたのは、海の向こうに広がる異文化の世界、そこで私の想像もしなかったような不思議な倫理に従って動く人々、彼らの言葉、生活、そしてその中で生きていけるかもしれない、という私の人生の新しい可能性だった。

現実世界は厳しいもので、ビザが降りず東京に何度か連れ戻されたが、それでも、英語が見せてくれたその可能性は、私の中で生きているし、私の本棚の中に息づいている。

そうやって英語漬けの20代を過ごした訳だが、最近になってやっと、日本語を安心して使えるようになってきた。英語という逃げ場ができたことで、自分の中にある日本的な部分を少し受け入れられるようになったのだろう。これまでは、困った時に不意に日本語が出てくること、アメリカにいながらああ、言いたいことが伝わらない、日本語なら、と思ってしまう自分が嫌だった。中身までを全部入れ替えて、アメリカ人になれたらいいのに、と思っていた時期もあった。

私にとって、日本語を話す自分を許容することは、嫌だと思いながら過ごした日本での子供時代を受け入れることでもあった。全部を嫌だと思っていたわけではない。楽しいことも色々あったし、大事に思うものだって色々あったのだが、どうしても嫌だと思っていた物事の記憶は耐え難く、それらの記憶や、そもそものアイデンティティを消し去るように、私はそれまでの自分を英語でうるさく上書きしようとしていたようだった。

でも20代の終わりが見え始めて、一度立ち止まり、それらの経験もひっくるめて自分であると認めないともう先に進めないと観念した時、私は、気づいたら日本語が嫌ではなくなっていた。

結局、どれだけ頑張っても、私個人と日本語は切り離せない。アメリカでたった一人の年越しに、違法アップロードされたガキの使いをYouTubeで見ながら笑う時、ああ、日本語が分かってよかった、と思う気持ちは、それはそれで何語を知るときの感動にも代え難いのだ。

今後もおそらく、この二言語の間を行ったり来たりしながら、私は生きていく。英語に望みを託し、日本語に故郷を見出して。

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