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有(Bhava)とは苦(Dukka)の一つ。ルアンプー•プラモート師

なぜ心は有(Bhava)*[自分が執着する何らかの力に従い様々な行動行為が現れること]に執着するのでしょうか

それは心が幸福に飢えているからです

もしも続きを観察するのならば

心はそれから離れる事で永遠に続くことはない

心はそれを掴むがそれは一時的なことである

という見方以外に

他の見方をすることもできるのです

それは

心が有(Bhava)に入った瞬間に

心が苦(Dhukka)になるのです

ではなぜ心は有(Bhava)の中に居たがるのでしょうか

それは

心は幸せを探し出せると思っているからなのです

私達に訪れ

欺かせるその一つは

性欲です

なぜ世間の人々は性欲にはまり込むのでしょうか

なぜならば

性欲が私達に幸せを与えてくれると信じているからです

もしも私達がサティと智慧(パンニャー)で

それを観察するのならば

性欲は苦(ドゥッカ)なのです

そして

性欲の中に苦があると観えるようになるのならば

心は性欲を棄てるのです

もしも

有(Bhava)が苦であると観えるのならば

心は有(Bhava)を棄てるのです

もしも

見解(ディッティ)、ものの見方や考えに執着することが

苦を観せるのであれば

心は見解を棄てるのです

良いものでは無いのです

それは苦でしか無いのです

少しずつ観察していくのですよ

心が良いだろうと思い好むもの掴みとるもの

しかし

サティと智慧ではっきりと観るならば

良いと思っていた性欲から

心は解脱するのです

心が居なれた有(Bhava)の中で

戒•定•慧は有(Bhava)の中に生じます

そして有(Bhava)良いものだと思います

しかし

心が有(Bhava)の中で観るのならば

どんな特別な有であれ

それは苦なのです

もしも、心がそのように観るのならばのならば

心は有を求めないのです

これ以上保とうとしたりしなくて良くなるのです

このような観方をしても良いのです

心は同じように解脱するのです

仏歴2567年2月11日

✴︎有(Bhava) 自分が執着する何らかの力に従い様々な行動行為が現れること

仏法ポーオー•パユットオーP139


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