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心解脱と慧解脱 ルアンプー・プラモート師

聖道が生じる時の

言葉があります

それは

心解脱(ジェートー・ヴィムット)と

慧解脱(パンニャー・ヴィムット)によって

解脱する

という言葉です

解脱する時には

心解脱と慧解脱によって

解脱が生じた

ということになります

心解脱で解脱する時には

禅定の力で解脱となります

これは

仏教で無くとも可能なことなのです

重要な事は

慧解脱によって解脱する事なのです

ヴィパッサナーの智慧によって解脱するのです

ヴィパッサナーの智慧が聖道の段階で生じる瞬間

慧解脱が心に自動的に生じるのです

禅定が心に自動的に生じるのです

しかしながら

私達は禅定の事を心配しなくてもよいのですよ

浸り込んでは知り

浸り込んでは知りを続けていくならば

サティ(気づき)が高まり

サマーディ(安定・集中)も高まるのです

そして十分になると智慧が生じてくるのです

そして心が統一されるのです

心が統一されることを

心解脱(ジェートー・ヴィムット)と呼びます

そしてそれが滅し

五蓋(ごかい)が落ち着き

慧解脱(パンニャー・ヴィムット)が真実を観るのです

そして

解脱が生じるのです

段階があるのです

聖道が生じる時

禅定の中でそれが生じるのです

禅定の中だけで生じるのです

禅定の外でそれは生じないのです

しかし

恐れることはありませんよ

ルアンポーが言ったように

実践し続ければよいのです

ある日

心の力が十分に満たされたのならば

禅定に自動的に入っていくのです

そして

聖道が生じるのです

聖道に到達した心は十結の煩悩が取り除かれるのです

私達を輪廻の生死に縛り付ける煩悩が取り除かれるのです

煩悩の結は10あります

預流果はそのうち3つが取り除かれます

不還果2つ取り除かれます

阿羅漢果は残りの5つが取り除かれるのです

これらは

心によって取り除かれる心のことであって

私達がそれを取り除く役割では無いのです

心解脱と慧解脱によって破壊されるのです

そして再び戻る事は無いのです

それが減衰することは無いのです

取り除かれならば

もう二度と生じないのです

取り除かれたらまた取り除くということは無いのです

ですから

私達は

少しづつ訓練しなければなりませんよ

最後は2つの要素で解脱に至るのです

一つ目はサマタの力によって

二つ目はヴィパッサナー力によって

解脱に至るのです

もしもサマタだけするのであれば

心解脱を起こす禅定に入る事ができるでしょう

他の宗教でもそれをすることが出来ます

しかし

もしも心解脱・慧解脱を生じさせるのであれば

これはブッダの教えの道なのです

それは

慧解脱だけのことを言っているのではありませんよ

聖道が生じる時には禅定に入っていなければなりません

常に心解脱との組み合わせが必要なのです

すこしづつ訓練していくのですよ

ある日

私達が仏陀の三宝に到達した時

私達に聖道が生じ道果が得られた時

私たちの心は聖人に変わるのです

僧侶になるのです

そして私達はダンマを知ることになるのです

それは

段階によるダンマです

預流果であれば

預流果の段階のダンマを知ることになるのです

一来果・不還果であれば

一来果・不還果の段階のダンマを知ることになるのです

阿羅漢果であれば

阿羅漢果の段階のダンマを知ることになるのです

それぞれの段階のダンマを理解する事になるのです

私たちのよく訓練された十分になった心は

慧解脱と心解脱が生じ

煩悩が取り除かれるのです

五蓋を取り除き

十結が取り除かれるのです

それぞれの段階で取り除かれていくのです

仏歴2567年8月6日


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