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幸せは前の方にあるもの ルアンプー•プラモート師

人々は

幸せを探し求め

苦を嫌っているのです

ルアンプー•プラモート師

そしていつまでも苦から逃れようとしているのです

そしていつも幸せを探し求めているのです

私たちが子供だった時

他の人は分かりませんが

ルアンポーはこの様に感じていました

それは「自由が無い」と

何かを買いたいと思った時

大人に頼まなければならなりません

買ってもらえることもあれば

買ってもらえないこともあります

何かをやりたいと思っても自由にできないのです

裏の家の木に登りたいと思っても登らせてくれないのです

家の裏の小川で泳ぎたいと思っても泳がせてくれないのです

禁止されてしまうのです

子供は本当に大変だと思ったのです

やらせられるばかりだと感じたのです

ですから

大きくなれば幸せになると

考えていたのです

学生になり

真面目に勉強し

時には疲れてしまうのですが

しかし

勉強が終わり卒業証書を手にすれば幸せになると

思っていたのたのです

卒業し仕事をし始め

仕事漬の日々が続くと

休みの日があればと思うと幸せを感じるのです

休みの日になって楽を感じていても

あっという間に時間が終わってしまい仕事が始まってしまうのです

心の中では

リタイヤすれば幸せになると思っているのです

ルアンポーの世代はもう仕事からリタイアしている世代です

リタイアして10年以上経っているのです

年老いて おじいさん、おばあさんと呼ばれているのです

しかし

どこにも幸せを感じていないのです

幸せは

子供の頃から探し求めて年寄りになっても

まだ見つからないのです

幸せは将来に待ち受けてるものであり

少し走れば手に届くと思っているのです

子供の頃からこの様に考えているのです

幼児が大きくなれば幸せになると思い

勉強が終われば幸せを感じると思い

仕事が終われば幸せを感じると思っているのですが

どこにも幸せは無いのです

ルアンポーは昔、この様な年寄りにあった事があります

それはルアンポーの父親でした

肝臓が悪く良くならなかったのです

そして病院に入院していたのです

病院のベッドには両脇に鉄のベッドパイプがついていました

苦痛が耐え難く

ベッドパイプを掴んでもがき苦しんでいたのです

「いつ死ぬんだ、おおい」

その時何を考えていたかというと

「死ねば幸せになる」という事なのです

子供の頃から「幸せは将来にある」と年老いるまで思っているのです

しかし年老いて病気になったのならば

死ねば幸せになると考えてしまうのです

ですから

世間の人々が探し求めてる幸せは

蜃気楼の様なものなのです

騙されていつまでも走り続けてしまうのです

しかし着いたと思って見渡してみても

何も無いのです

何も残っていないのです

ですから

もしも私達が人生をよく観察してみるのならば

はっきりとわかるのです

それは

私達が幸せを探し求めていた時の事を振り返ると

結局幸は見つからないのです

あるときには幸せが見つかったと感じるのですが

幸せがわしたちと共にいるのはほんの少しの間だけなのです

若いときには身体が元気で

スポーツをしたりして

幸せなのです

ある日

女性を好きになったときには

幸せを感じるのでしょうか

この幸せは少し変で

心に痛みを感じる幸せなのです

付き合えるかどうか願わなければならないのです

もしも付き合える事ができたのならば

嬉しいのです

しかし嬉しさもひと時なのです

いつ結婚できるのだろうと今度は思うのです

結婚したのならば今度は家族を作るのです

生活を助け合って一緒にして行くのです

しかし

探し求めてきた幸せを忘れてしまうのです

この女性が私のところに来れば幸せを感じるはずだ

この男性が私のところに来れば幸せを感じるはずだ

生活のためにあくせくしてるの様なものなのです

女性を恋人にできた幸せも

結婚した幸せも

どこかにいってしまったのか

分からなくなってしまっているのです

毎日生活するのに精一杯でストレスを感じているのです

前の方にある幸せは

魚を誘い込ませる釣り針に食い込んだ餌の様なものなのです

魚に食べさせてるのです

魚もそれが好きなのです

もしもその幸せを好むのならば飛びついてしまうのです

ですから

もし私達が何度も飛びついてしまうのであれば

満足の為に飛びつきたくて仕方が無くなるのです

これは業の出来事なのです

普通の人は人生の幸せや楽しさに執着してしまうのです

仏暦2567年1月21日


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