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ササタ・ディッテイ ルアンプー・プラモート師

ミッチャー・ディッテイ(邪見)の話をします

邪見を持った人は非常に沢山います

邪見の一つ目はササタ・ディッテイ*と言います

それは

私達は死んだのならば

魂が身体から抜けていって

そして同じその心が

新しい身体に住み込むいう感覚です

それはあたかも

ヤドカリが大きくなったら

小さな殻を捨てて

より大きな殻を探しに行くような感覚です

私達は輪廻の事を

死んだのならば

身体だけが死に

心は死なない

心は永遠にあると思っています

もう一つの邪見は

死んだのならば無になり、何も無くなる

というものです

心はただの物質であり

物質から生まれたものであり

身体が死んだのならば

心も滅して

全てが無くなる

という見解です

これは邪見の例です

今日、普通の人々は

死んだならばまた生まれ変わると

思っています

物理学者達のように

物質のように測定出来る事だけが真実であると信じている人々は

死んだならば何も無くなると考えています

そして

人々は

死ぬならば生まれ変わるのか

それとも無になるのか

主張し合っているのです

しかし

真実はどちらも誤っているのです

もしも修習(バワナー)するのであれば

”わたし”というものは無いと

この瞬間にも

そのことをに出会うのです

死んだのならば

なに持って生まれ変わるのでしょうか

もしもこの瞬間にわたしというものが無いのであれば

何をもって”無になる”のでしょうか

”わたし”というものがいる

このことは誤った浸り込みの感覚なのです

わたしがいると誤った認識に浸り込むのならば

次にイメージが湧き始めるのです

まずは

”死にたくない”と

そして

”死んだならば同じ心がまた生まれ変わるのだ”というイメージが

湧いてくるのです

もう一方は

”死んだのならば無になる”というイメージが湧いてくるのです

ブッダはこのようなことは教えていないのです

Sassaṭṭitthi、物事は変わらないという見解。 それは、自己と世界は現実であり、永続し、永遠に続くという見方です。
たとえば、人や動物が死んだのを見る。 体だけが劣化する。 魂、スピリット、マナスに関しては、その性質は消えない。 彼は再び別の生で生まれ続けるでしょう。 それは一種の誤った見方である

สัสสตทิฏฐิ


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