見出し画像

Saññā 知ろうと意図する心③ ルアンポー・プラモート師

  (つづき)  智慧の初めはこのように(体感として)知るのです。「生じる事すべては自然なこと、滅することすべては自然なこと普通の事」と。智慧の高い段階では「生じ滅することは苦以外何もない、苦以外は他に在するものは無い、苦以外他に滅するものは無い」とはっきりと知るようになるのです。智慧の高い段階にはこの様に観えるのです。
 智慧の初めの段階では「すべての生じるものは滅して無くなる」と観えるます。少しづつ経験を集めていくのですよ。すると「私」というもの「永遠に在り続ける私」というものは無いという真実を解り始めるのです。ただ「私がいる」という感覚があるだけなのです。その感覚は原因と条件が揃えば生じてくるのです。それは考えた後に生じてくるのです。もしも私たちが考えなければ「私」というものは無いのです。考えて「私」というものが生まれるのです。「私」と考えることは知ろうとする意図が間違っているのです。Saññā (サンニャー想念)が間違っているのです。
 
変するものを変化しないと観る、苦であるものを楽と観る、私のものでないのに私のものであると観ることは間違いなのです。例えば私たちの身体は私たちのものではありません、これは自然の資産なのです。土の要素なのです、ある日、自然に返さなければならないのです。身体の土、水、火、風の要素はそれぞれ持ち主の自然に返さなければならないのです。
 ですから私たちは少しづつ修習を続けこの経験を集めていくのですよ。サマーディを生じさせるために五戒をまもる。智慧を生じさせるためにサマーディを持つ、智慧を持つと少しづつ真実が観えるようになるのです。生じる事は滅する、これは知恵の1段階目です。(つづく)

仏暦2564年12月17日



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?