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法話を聞き続ける理由

こんにちは今日はタイトルにもあります様に法話を聞き続ける理由について思ったことを書き綴ってみたいと思います

これは法話に限ったことでは無いのですが

一度聞いただけではピンとこない事、経験があるのではないでしょうか。一方で随分と長い話であっても、一度聞いただけで要点を掴みしっかり頭に入っているということも経験したことがあるのではないでしょうか

 理解できた時、私は長いトイレットペーパーの様な紙がうまく重り一枚の薄っぺらい紙になった様な感覚を覚えます、理解する、記憶するというのは一瞬のプロセスなのだという気がします。

 私たちが理解ししっかり心に残っているとはそのことに対して疑いが無くなった状態であろうと思うのです。なんとなく聞き流している話であっても
どこか引っかかる話というのはあると思います、それは自分の理解の見解や記憶と違うものであった場合だったり、受け入れがたい言説であったりするわけです
 タイトルにもありますように「法話を聞き続ける理由」としましたが、仏教法話は同じような話ばかりだと思います、同じような話が形を変えて語られる、あるいはお経もそうですが、同じお経を何度も何度も読んではまた読む、ではなぜ一度聞いた話を何度も何度も聞いたり唱えたりするのでしょうか。
 それは仏教法話で語られるその真実が私たちの心に届いていないからではないかと思います。仏教の教える心身の真実を実感が無く疑っているから心に届かないのではないかと思うのです。タイ語で理解するという言葉を「カオ・チャイ」と言います。カオとは入る、チャイとは心のことです。カオ・チャイとは心に入ってくる事、日本語だと「理解する」とか「わかった」に相当するわけですが、私たちは法話を一回聞いただけでは心に入ってこないのでしょう。「カオ・チャイ(心に入る)」にならないのです。なぜならば実感が無い話を耳にした時、私達の反応は疑うか無視するか反発するかどちらかだからです。

 仏教では「わたし」という固定的なものは無いと毎回のようにお経や法話で語られてきます。そして自分自身を身体や心、五蘊にバラして観察したりしますが、一度や二度観察しただけでは私たちの心は「わたしというものは実在しない」とは受け入れないものです これは私たちの「心に届いていない」ということだろうと思うのです。

ですから私たちの無知な心に法話やお経を心に触れる機会を作ってあげなければ、「カオ・チャイ:心に入っていく」状態にはならないのです。法話を聞き続けるのは「心に入れる」作業、「腹落ちさせる」作業になりましょう。ダンマを理解する条件を作るということであろうと思います

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