見出し画像

インドネシア滞在記(番外編)アゲの結婚式

 日本に帰国して2年半が経ったある日、アゲから結婚式の招待状が届いた。帰国してからもアゲとは連絡を取り合っていて、時には彼女が担任をしている小学校の生徒達と文通をしたりもしていた。手紙は船便で送られてくるので、届くまでに2ヶ月くらいかかったりしていたが、それはそれでなんだか素敵だったし、密かな楽しみになっていた。
 アゲからは、何度かお見合いをした話とかも聞いていたので、いったいどんな相手なんだろうと私は一人で勝手にそわそわしていた。結婚式の日程はちょうどクリスマスだったので、私は早めの年末休暇をインドネシアで過ごすことを決め、早速インドネシアまでの航空券を探し始めた。
営業職だった私は、年末の繁忙期に休みを取ってインドネシアに遊びに行くなんてお得意先様にはとても言えなかったので、年末が近づくとこっそり会社からスーッといなくなりインドネシアに飛び立った。

 アゲの故郷のバンカ島の空港に着くと今回はアゲではなく、手紙のやり取りをしていたアゲの小学校の生徒の女の子が4人、目をキラキラさせて待っていてくれて、会った瞬間「アン~~!!」と言いながら駆け寄ってきた。スティッチのぬいぐるみがついた手作りの可愛らしい花束を準備してくれていて、前回来た時には飛行機が6時間も遅延して散々アゲを空港で待たせてしまったので、今回はこの子たちを待ちぼうけにさせず済んで本当に良かった、と胸を撫で下ろした。4人とも初めて会ったとは思えないくらい無邪気で人懐っこくて、元気によく笑い、私の目にはなんだか透き通ってみえた。

 私が到着したのは結婚式の前日だったのでアゲの家は結婚式の準備で大忙しだった。いつもはシンプルなアゲの部屋も、綺麗に飾り付けられてベットには新品の白いサテンのシーツがかかっていたし、ドアにはたくさんの造花が取り付けられていた。
庭では披露宴のためのセットや飾り付けが大急ぎで行われていて、ゲストにご飯を振る舞うための屋台まで準備してあった。インドネシアの結婚披露宴は日本とは違い、朝から晩まで一日中延々とやっている。みんな自分の都合のいい時に来て新郎新婦におめでとうを伝え、自由にご飯を好きなだけ食べて、好きな時間に帰って行く。なんともオープンで自由なフリースタイルなのだ。
 忙しかったのは会場の飾り付けだけではなく、花嫁であるアゲ自身もだった。イスラム教の花嫁さんは両手と両足に、「ヘナタトゥー」と言って天然の染料のヘナを用いて、タトゥーを書く風習があるらしい。タトゥーと言っても2週間くらいで色は落ちるのだが、茶色ともオレンジとも言えない色合いと、左右対称の美しい模様がなんとも神秘的なのだ。

夕方頃に、ヘナタトゥーを描くためにお姉さんがアゲの家にやってきたが、見慣れない日本人のお客が来ているらしいと聞きつけたアゲの友達や親戚もぞろぞろ集まってきて、みんなでアゲのベットの上に乗っかってワイワイ言いながらその様子を見守ることになった。下書きなしで、金属のペンで一気に花や様々な線が次々と手の甲に描かれていく様が気持ちよくて、思わずじっと見とれてしまった。その様子を見ていたアゲが、アンにもヘナタトゥーを描いてあげてほしいと頼んでくれ、私は花嫁でもないくせに両手にタトゥーを描いてもらった。薬指に指輪のような模様を描いてくれたのが特に美しくて気に入ってしまい、仕事始めには消えてないと会社で怒られるかなと思いながらも、私は何度も自分の手を眺めながら、しばらくこのまま取れないで欲しいなぁと願った。
そのまま、綺麗に飾り付けられたアゲのベットで私が一番に寝落ちしてしまうという失態をやらかしつつ、気づけば結婚式の朝になっていた。

 イスラム教の結婚の儀式は家の中で行われ、なにやら偉い人っぽい雰囲気を醸し出したおじさんがお経のようなものを延々と読んでいる間に、アゲは自分の部屋で白い衣装に着替え、綺麗にお化粧をしてもらい出番を待っていた。私もクバヤという伝統衣装を着せてもらい、アゲと一緒に部屋で待機しながらドアの隙間からちらちらと外の様子を伺っていた。いつもサバサバしているアゲには珍しく緊張で顔がこわばっていて、手はビックリするくらい冷たくなっていたので私はその手をずっと握っていた。新郎の儀式が終わり、遂にアゲの出番がやってきて部屋から彼女を送りだすと、優しそうな旦那さんの隣に並んだアゲを見て、なんだか急にほっとした気持ちになった。

 もちろん感動もしたけど、小さい家にぎゅうぎゅう詰めに人が集まっていて、家の中が恐ろしく暑かった。エアコンも扇風機もないので、暑い中ひたすら汗をダラダラと流しながらおじさんのお経のようなお祈りをずっと聞いていたので、私は段々頭がボーっとしてきていた。庭の披露宴は夕方まで開いていて、屋台でお手伝いをしていた女の子たちと一緒に遊んだりそれは素晴らしいひと時だったが、終わるころには完全に熱中症になっていて、アゲの親戚の家に着くなり頭痛と吐き気で倒れこみながら眠りについた。
 滞在中はアゲの親戚の皆さんが入れ替わり立ち替わり私のお世話をしてくれて、観光から食事まで、色んな所に連れて行ってもらい、本当に申し訳なくなるくらい親切にしてもらった。ちょうど12月はドリアンの季節だったので、私がドリアンが好きと聞くと、毎日飽きるほどドリアンを食べさせてくれた。スコールが降る中、屋台でみんなでドリアンを食べた光景が頭に焼き付いている。ちなみにドリアンは臭いイメージが強い果物だが、実は取れたての新鮮なドリアンは全然臭くない。むしろ濃厚な白い身がクリーミーでとっても美味しいのだ。
 帰るころには、アゲはすっかり落ち着いた表情になって、旦那さんのヨギの隣に収まっていて、私は幸せな気持ちでバンカ島を後にした。

 ところがその後、一度ジャカルタに戻った私は40度近い高熱を出してホテルで動けなくなってしまった。そのうえ、声が全くでなくなった。インドネシア人の友達にも助けられつつ、解熱剤を飲んで熱を下げてなんとか出国したものの、飛行機では死にそうになってぐったりしていた。日本に着いたと同時に家族に救急病院に連れて行ってもらったが、ちょうどお正月で救急病院は大混雑で、何時間も待つことになった。なんとか薬をもらったが、相当強い何だかよくわからない熱帯の謎の菌に感染していたらしく、薬が全く効かず熱も全然下がらなかった。結局お正月は実家で高熱をだして寝込み、相変わらず声が全く出ないまます過ごすはめになり、結局治るまでに半月くらいかかった。
後日、アゲに熱を出してダウンしていたことを伝えると「ドリアンの食べすぎだと思う」と本気で心配されて、なんだかもう色々どうでもよくなって思わず笑ってしまった。

 インドネシアに行くと必ず何かが起こってしまうのは一体何故なのかは自分でもよくわからないが、でも最高の年末に違いなかった。
仕事も始まり、年末に溜まった大量の着信履歴に折り返しの電話を入れて謝りながら、いつも通りの日常が少しずつ戻ってきて、気づけばヘナタトゥーも取れてしまった。
 相変わらず行き当たりばったりで、なんだか遠回りばかりしているような気もするけど、でもそれでいいんだと、前よりも少し強くなれた気がしている。

(終わり)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?