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「持たない男」

暑い夏の午後、私と彼は喫茶店の中に居た。
古い建物の周りに蔦の絡まるこの純喫茶は、エアコンが程よく効いている。

私は週末になると、この純喫茶へ電話をかけて、彼を電話口へ呼び出してもらう。
「今から行くね」
「うん、待ってるよ」

何故、お店に電話をかけるのか。
それは彼が携帯を持たないからだ。
今年で平成も最後だというのに。

彼は、徹底して物を持たない男なのだ。

以前は営業職という職業柄、携帯は必ず持って行動していた彼は、営業という職種が性に合わず、退職した後も飲みの誘いに電話をかけてくる元クライアントにうんざりして、携帯を手放したそうだ。

今の職場は小さな出版社で、彼はパチンコ雑誌の紙面のレイアウトなどをしている。
殆どデスクワークで、休みの日以外は、一日中 会社に居るので、携帯が無くても困らないらしい。

一応、仕事の勉強の為に、少ない休日に朝からパチンコ屋に並び、何件かハシゴをして新しい情報収集をしたら、午後からこの喫茶店で落ち合い、私と会うのがもう2年も続いていた。

「パチンコなんか大嫌いだ」
入社当初は物珍しさからも、今までほとんど行ったことの無かったパチンコに、多少は興味を持ち、それなりに楽しんでいた彼も、忙しい毎日の中での少ない休日に、あの喧騒の中に身を置くことが、
だんだんと苦痛になっているようだった。

「でもね、毎日なら依存性になってるかもしれないけど、平日は仕事だし、パチンコは月に3回程度だから、不幸中の幸いかもね」
そういう私に、
「その平日も、毎日パチンコの記事を眺めているんだ…」

彼は、喧騒はもううんざりなんだ、と言いたげに、いつも静かな店内のこの喫茶店がお気に入りの場所だ。

オシャレなカフェで流れてきたボサノヴァさえも、今の彼にはうるさいらしい。

このお店は音楽を流さない。
いつも少しのお客さんの小さなお喋りが時折 聞こえるだけ。
常連客の笑い声や、カウンターの中でマスターが料理を作っている音も、一番奥の窓ぎわの席に座る私達には、遠くで聞こえるだけだ。

席の横には間仕切りのように置かれた、2つの大きな観葉植物が、隣りの席との壁のようになっていて、2人の静かな空間を壊さない役目をしてくれている。

程よい硬さのソファー椅子で、お互いに話したい時に話しながら、思い思いに小説や雑誌を読んで過ごす。

私は大抵、ケーキセットでレモンティーを頼み、彼は純喫茶らしいナポリタンとバナナジュースを頼んだ。

この関係ももう2年か…
私はぼんやりと彼との2年間を思い起こしながら、外に目をやり、雨粒がガラス窓に付くのを見て、溜め息がもれた。

彼は傘を持たない。
1本も持っていないのだ。

小雨ならそのまま歩くし、大雨の時は、雨やどりして時間を潰す。

「その時間は無駄じゃないの?」
私の問いかけに、
「ここぞとばかりに、会社や喫茶店で本を読んで、雨が小降りになるのを待つんだ。
まさに恵みの雨だよ。」
彼のバッグには、いつも図書館で借りた本が入っている。

私は問いかけを続けた。
「例えば、本を持たない、スーパーやコンビニなんかで、急に大雨になったら?」
「立ち読みしたり…降りそうな日には、パーカー付きのナイロンジャンパーを折り畳んで、ショッピングバッグと一緒に買い物に出るからね、雨でそんなに困るほどの事は、今のところ無いよ。
雨の日に出掛ける時は、地下鉄を使って、地下街を歩くし、毎日 朝と夜にパソコンで天気予報をチェックしているんだ。」

「つまり、傘を持つことよりも、工夫して持たない努力をするほうが、あなたには大事なことなのね。」
彼は事も無げに、
「まあそういうことだね。」と答えた。

「そろそろ行きましょうか」
「そうだな」
私達はそれぞれのバッグに、それぞれの本をしまい、レジへ向かった。

財布を持たない彼が、ポケットから直接 現金を出して代金を払ってくれる。

「いつもありがとう、ご馳走様」
「いいんだ、それより今日はうちに寄って行くか?」
「…今日はやめておくわ。」
「そうか、じゃあまた次の週末に、ここで。」
店を出て、その蒸し暑さに一瞬 顔を見合わせ、私は少しおどけて肩をすくませた。

雨脚が強まってきた。

彼は私に小さく手を振り、足早に地下街の入り口へと急いだ。

平成最後の夏は、いつもより一層 むせ返るような暑さだ。
遠くで小さく雷が鳴った。

本降りになりそう。
私はバッグの中からブルーの折りたたみ傘を出した。
彼が傘を持たないのを知ってから、私のバッグの中には、常に折りたたみ傘が入っている。

けれど今日は、折りたたみの小さな傘で、2人でぎゅうぎゅうに肩を寄せ合って歩く気分じゃなかったし、何も無い、あの、がらんどう のような部屋へ行く気分でもなかった。

彼の部屋には本当に何もない。

ワンルームマンションの入口のドアを開けると、玄関にいつも彼が履いているのと同じローファーの革靴が、もう一足置いてある。

左側に小さなキッチン、右側にユニットバス。
シンクの周りには、台所洗剤とスポンジ以外、何もない。
必要最低限の食器や調理用具が、シンク下の扉の中に、余裕を持って収まっている。

六畳間の部屋の左端に、コンパクトなデスクとイス。
デスクの上にノートパソコン。それだけ。

デスクの壁の上部の白いエアコンが、何も無さすぎる部屋では、1つの家具のように見えた。

右の壁は、作り付けの押し入れとクローゼットで、これまた生活する上で、必要最低限の物がここに全て収まっていた。

何度目かの、彼の部屋へ訪れた時に、押し入れとクローゼットの中身を、くまなく見せてもらったことがあった。

押し入れには冬用と夏用の寝具が上段に一式ずつ。
下段には、掃除機、扇風機、電気ストーブ、アイロンとアイロン台、それと半透明のプラスチック製の収納ボックスが1つ。
中には、一眼レフカメラと、彼がいつも付けている時計の色違い、そして四角い黒いポーチの中に、通帳や印鑑などの貴重品が入っていた。

クローゼットには、年間を通して着る洋服が、最低限の数でハンガーに掛けてあり、冠婚葬祭で必要なスーツも2着あった。
下には収納ボックスが2つ、Tシャツや下着や靴下などが入っていた。
クローゼットの端に、出張用の小さめの黒いキャリーバッグがあった。

冬によく着ている黒のジャケットとコートも、同じ物が2着ずつ掛けてあった。
普段は履かない白いスニーカーも奥に見えた。

兎に角、年間を通して身につける物が、全てクローゼットの中に収まっていた。

「うちの会社はスーツを着なくてもいいし、Tシャツとジーパンとスニーカーじゃ、さすがに差し支えるような時も、ポロシャツとチノパンと革靴なら、大抵は大丈夫なんだ。」

私はこの時、貴重品の置き場所まで見せてくれることに、信用されているという幸せな安堵に満たされたけれど、
今にして思えば、彼には無くなって本当に困るものなど、実は何も無かったのかもしれない。

悟りきったような、あの部屋を思い出して、私は今更ながら、彼の心の中を理解出来たような気がした。

部屋に誘われて断ったのは、先月から3度目だ。

私はあの何も無い部屋で、彼と抱き合い、夜になるまで過ごし、帰る頃、
「送っていこうか?」と優しく言ってくれる彼に、「1人で大丈夫だよ、またね」と答える。

そのくせ、1人の帰り道では、毎回 決まって泣きそうになるのだ。

彼にとって最高の空間である、何も無い部屋で、心地よさそうに畳に座り、壁にもたれかかっている様子を見ながら、彼のその時間が、何か神聖な時間のような気がして、邪魔してはいけないような気がして「1人で大丈夫」と、つい言ってしまうのだ。

部屋に人を泊めない彼に、珍しく「泊まって行くか?」と聞かれたことがあった。
私は嬉しくて「うん」と言いかけたが、少し迷って「…今日はやめておく」と答えた。

女が泊まるというのは、少々 準備が必要なのだ。
メイクポーチに、歯ブラシと、着替えの下着ぐらいは用意しておきたい。

他の部屋なら、お泊まり用に、コンビニでメイク用品と歯ブラシと、取り敢えずの下着くらいは買ってくるけれど…

あの部屋である。
何も置いてはいけないような、歯ブラシ1本も増やしてはいけないようなあの部屋で、私は物を買ってくるのを躊躇していた。

無論、買った物はきちんと持って帰るつもりだけれど…。

この先も、これからずっと先も、私の歯ブラシをこの部屋に置くことは出来ないような気がしていた。

「ねえ、あなたは平成最後の夏になにがしてみたい?」
私はおもむろに聞いてみた。

彼はクローゼットの方を向いて、
「いつか、キャリーバッグ1つで身軽に引っ越せるくらい、物を減らしたいんだ。
平成最後の夏はクローゼットの中の物をもっと減らすよ。」

あれから、あの部屋には泊まる気になれなくなった。

彼は何も持たない。
何も足さない。
この先もずっとそうだろう。
それが彼らしく、至極 当たり前のことのように思えた。

今度、大雨が降ったら、きっと私は彼を捨てるのだろう。

平成最後の夏、私は「持たない男を持たない女」になるのだ。

小さな折りたたみ傘をさして、真夏の雨の中を歩きながら、そんなことを考えていた。

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