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【短編小説】君には見えない(後編)

 ※前編はこちらから。

✳︎

 これから出発でーす、と、駅で撮った写真付きで送られてきたメッセージにちらりと目を落とす。結局絢香たちの旅行は大阪行きに決まったらしく、お土産何がいい?とか、何着てこうかな?とか、ナンパされたらどうしよう?とか、私にとってはだいぶどうでもいい内容のLINEが二日おきくらいに送られてきていた。でも別に嫌ではなかった。膨大なエネルギーを思い切り爆発させているようで、見ていて眩しかった。そう言えば私だって同じ高校二年生なのだから、ナツヤスミというものから同じだけのエネルギーが与えられているはずなのだ。でも私はそれを溜めて溜めて、おさえておさえて、それでそうっとここへ来る。目の前に三崎先生がいる、いる、いる、と強く感じながら、薄っぺらいワークにシャープペンを滑らせる。細い、頼りない、文字の線の分だけ、私のエネルギーはもどかしくそこへ漏れていく。
「はい、今日のとこ書けた人から手上げて。先生がチェックするから、オーケー出たら帰っていいぞ」
 三崎先生の声が斜め後ろから聞こえて、私は携帯を机の中にしまった。私の開いたページは、他の子たちのやっているページよりも少し遅れていた。
「志田ー。一番焦らなきゃいけない奴が何でそんなに呑気なんだー?」
「ちゃんとやってますよー。ほらここあと一行」
「うん、そこ家でやって来いって言ったとこな」
「ひとりでできないんだもん」
 何だよそれ、と苦笑する先生は、今日は黒いTシャツ姿だ。この補習が終わったらテニス部の顧問としてコートへ行くのだろう。ふと、翼の苦い顔を思い出して、胸の奥がぴりりとする。私は投げ出していたシャープペンを手に取ると、最後の一文をあっという間に書き上げて手を上げた。
「お、出来たか」
「とーぜん。やるときゃやるよ私は」
「だからどの口が言ってんだよ」
 先生はまた苦笑しながら私の机からワークをさらった。手近な椅子に腰掛けて、私の書いた小論文に目を落とす。少子高齢化について。三崎先生のことばかり眺めながら書いた小論文に、いったいどんな意義があるのかはわからないけれど。
 大部分の生徒が補習をクリアしてしまい、教室には私の他に二、三人が残っている程度だった。先生の顔が、す、と真剣になった。うつむき加減の目元に、髪が落ちた。あいかわらず不健康な冷気を送り続けるエアコンの風が、その髪を揺らす。レンズの向こうにある真っ黒でとうめいな瞳が、原稿用紙のマス目を追って、ちっ、ちっ、小刻みに震えた。
 あ、あのときと、同じだ。ふと懐かしい光景が頭をよぎった。
 入学したてで、まだ三崎先生の存在も知らなかった頃。集配係の仕事で放課後訪れた職員室、コーヒーとインクの混じりあった淀んだ空気の中で、私ははじめて、先生を見た。先生は椅子に深く座り、傍らに積まれたノートの山から1冊ずつ手に取っては、何か添削しているようだった。遠くから見えるページの片面が文字で埋め尽くされているのを見て、私は先生が国語の担当であることを知ったのだ。
 職員室の中は雑然としていた。新一年生の私にとっては知らない顔ばかりで、窓の外では運動部の怒鳴り声や笑い声が響いていたけれど、私はその時、一瞬なんにも聞こえなくなった。なんにも見えなくなった。そこに静かに座っている、三崎先生以外、なにも。
 三崎先生は愛でるように読んだ。一文字一文字を食べるようにして目から取り入れた。その事が遠くからでもわかった。大事な本でも扱うように丁寧にノートを開く、ペンを持った手を添える、それからじっと、食い入るように文字を追う。時々口元をほころばせ、かと思うと引き締め、読み終わると必ず柔らかなため息をついて、赤ペンで端の方に何か書きつける。こんなに楽しそうに添削をする人を見たのは、はじめてだった。通りかかった担任が、誰か探してるの?と怪訝そうに声をかけるまで、私は我を忘れてその光景に見入っていた。
 だから、二年生になって、現代国語の担当が三崎先生だと知った時、私は先生の近くにいるためなら何だってしようと決めたのだ。先生の読み方、話し方、笑い方、全てが私の胸の奥深くをくすぐった。気づいたら、私は自分を誤魔化しきれないくらい、先生を――
 ふあ、とため息が聞こえた。はっとして背筋を伸ばす。机の上に私の文字で埋め尽くされたワークがパタンと置かれた。三崎先生が、なんとなく困ったような顔で私を見ていた。ふと、胸がズキンと痛んだ。
「志田ー」
「ダメ出しなら聞こえませーん」
 聞けよ、と三崎先生は言って、また困ったように頭をかく。子犬のような顔だと、こういう時思う。
「うーん、あのなあー、志田ってなんでこうなんだかなあ」
「え、どういうこと?」
「あのな、何でこんなにいい文章書けるんだ?」
「は、あー?」
 ズキズキズキ、また胸が痛くなる。私は顔が赤くなるのを隠したくて机に突っ伏した。
「何でこんないいもの頭ん中に持ってるのに、それが出てくるまでにめちゃくちゃ時間かかるんだよ」
「褒めてんの?けなしてんの?」
「褒めてるんだけどさあ、これ俺が教える意味あるかあ?」
「あるよ」
 私は突っ伏したまま、顔にかかった髪の毛の隙間から三崎先生を見た。胸が痛い。先生の真っ直ぐな目を見れない。ごめんね、先生、と心で必死に繰り返した。こんな嘘つきのために夏休みを使わせたりして。でも、先生が来てくれる意味は、絶対にある。自分勝手だけど、絶対にあるよ。
「先生が現国の先生じゃなかったら、小論文とか絶対やんないし」
「おい、そりゃだめだろ」
 先生がおかしそうに言った。言いながら立ち上がると時計を見て、昼だな、とつぶやく。
「今日はここまでだな。解散でいいぞ」
 それから先生は私の方を見た。私はやっぱり先生の目を見れなくて、かすかに上がった口角のあたりにぼんやりと視線を漂わせた。
「ちゃんと最後まで見るけど、お盆前には終わらせてくれよ、先生も夏休み欲しいからな」
「夏休み?彼女とデート?」
 先生は何がおかしいのかハハハハ、と笑うと、志田はいつになったら敬語覚えるんだ、と言って私に背を向ける。まだ子供の私じゃ、質問に答えてさえもらえないみたいだ。私はワークブックを引っつかんでカバンに投げ入れようとし、それからそれを丁寧に開いて読んでくれた三崎先生の横顔を思い出して慌てて優しく握り直した。

 弱冷房車に揺られながら窓の外を眺める。手のひらで携帯が震えたので、画面を確認した。予想通り、絢香からのLINEだった。前々から行きたいと言っていたテーマパークの前で撮ったらしい、カラフルな写真が目に飛び込む。メイクもファッションもバッチリ決まっていて、それだけでテンションが高いのがわかる。ちょっとだけ、いいなあ、と思う。
“きいてー!よしこがばかやねん”
“これからめっちゃ歩くってのに駅に着くなりでかいたこやきのクッション買いやがった笑”
“めっちゃじゃまやねんけど”
 すっかりエセ関西弁の絢香に呆れつつ、一応スタンプで反応してみる。
“わざわざ私のためにありがとうって伝えとけ”
 すかさず既読がつく。カフェテリアかどこかで休憩中かもしれない。
“あれ彼氏にあげるやつだからだめやって”
“てか彼氏にたこやきて笑”
“ばかや”
 なかなかヨシ子らしいなあ、っていうかヨシ子って彼氏いたんだ。なんとなく、LINEの向こうの熱気に嫉妬してしまいそうな予感がしたので、私は適当な返事を打った。
“はいはい。楽しんで”
“あとエセ関西弁ちょっとうざい”
 それから画面を落としてカバンにしまう。ふう、と息をついた。カラフルな写真と跳ね回る文字が視界から消えてしまえば、私の周りはこんなにも静かなのだと気づく。
 うらやましくないと言えば、嘘になる。勉強も恋も、遊びも、何も考えないで衝動のままにやり散らかすのはきっと、清々しくて、かけがえがなくて、心底楽しいものなのだろう。例えばやっぱり私だって、彼氏が欲しいと思ったりもするし、青春は一度きり、なんて言葉を聞くたびに取り残されたような気持ちにもなる。三崎先生の涼しげな横顔を眺めている間に、私の両手からどんどん青春なるものがこぼれ落ちていっているような、なにか取り逃しているような、そんな気がしないでもない。でも、もうどうしようもない事だ。
 ふと、彼女とデート?と聞いた時の三崎先生の笑い声を思い出した。いるんだろうなあ、と思った。いないわけがないなあ、とも、思った。私は先生にとってただの困った生徒に過ぎないことくらい知っている。どんなに背伸びしたってそれはただの背伸びで、絢香たちに、優ちゃんって大人っぽいよね、なんて言われたところでそんなの本物の大人には通じない。私と先生の差はどこまで行っても縮まらない。何かを期待しているわけじゃない、つもりなのに、こんなに悔しいなんてどうかしている。
 とりあえず、私に出来ることといったら、ワークをゆっくり、解くことだ。ゆっくりゆっくり。できるだけ長く、先生のことを見ていられるように。できるだけたくさん、私が先生の目に映るように。だから夏休みなんて、なくたって構わないんだ。先生ごめんね、私は心の中で、呆れ顔の三崎先生に向かって手を合わせてみせた。

✳︎

「結局志田はビリっけつだったな」
 エアコンの温度をさりげなく下げながら、三崎先生はそう言って私をからかう。一人、また一人と課題をクリアしていった結果、ついに補習を受けに来る生徒は私一人になってしまった。
「こんなに志田の顔ばっか見た夏ははじめてだよ。まあでも、それも今日で終わりだな」
「先生、さみしいんだ」
「なんだそれ」
 先生の呆れ顔も、この夏でずいぶん見慣れてしまったな。先生の白かった肌は、うっすらと日に焼けて夏休み前よりも少しだけワイルドになっている。さみしいわけ、ないか。ワークを埋めるシャープペンにぐっと力を込めた。どんなにゆっくり書いたって、この補習はあと数分で終わってしまう。終わりかけの花火を見ている時みたいに、心がぎゅっとする。
「でも大学行くつもりなら、もうちょっと手際よく文章組み立てられるようにならなきゃな」
「また先生が教えてくれるなら出来る」
「真面目に言ってんだぞ?よく書けてるからこそもったいないっていうか、心配なんだよな」
 真正面から私を見てそんなことを言う。私は心臓の音が聞こえてしまわないかと焦って、慌てて目をそらした。ゆっくり書こうと思っていたはずなのに、いつの間にかシャープペンが最後のマス目を埋めてしまう。
「書けた」
「お、よし。ちょっとチェック」
 先生がワークを持ち上げると、空気がふわりと顔のあたりをなでた。ずるいな、と思う。私はひとりでドキドキしたり悲しくなったり、本当に馬鹿みたいだ。やっぱり、どんなに頑張ったって、私は子供だ。なんで子供なんだろう、なんで先生は大人なんだろう。
「あのさ」
 おもむろに三崎先生が言った。ワークから顔を上げた先生と、目が合った。
「志田はさ、自信ないんじゃない?」
 どきん、と胸が鈍く痛んだ。先生が文章の話をしている事くらいわかっていたけれど、まるで心の中を見透かされているような気持ちになったから。
「はっきり言うと、志田は文才あると思う。でもそれを表現する自信がないんじゃない?俺なりに考えたんだけどさ、きっと志田の頭の中では色んな考えとか感情が巡ってるんだよな」
 先生の軽やかな声が、耳から胸の奥へ滑り落ちていく。じんわりと胸の中心が熱くなる。騙してごめんなさい、という言葉が喉まで出かかった。こんな私、先生に褒めてもらう資格なんてないのに。嘘ついたり不格好に背伸びしてみたり、そのくせ本当の気持ちは心の中ですら認められない臆病な私に向かって、先生はどこまでも真っ直ぐな目で語りかける。少しでも気を抜けば感情が溢れてしまいそうで、私は唇を噛み締めた。
「小論文より、随筆とか小説なんか向いてるかもな。なんでもいいから志田には文章をもっと書いてみてほしい。怖がんなくていいから」
「何で。私小論文だってこんなに……ダメダメなのに」
「だから言ったろ、ダメなんじゃなくて、自信がないだけだって。思ってること、文字にするのは恥ずかしいことじゃないんだよ」
 私は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。この気持ちだって。言えたら、形にできたなら、どんなにいいだろう。先生はそんな私を見てふっと息を吐くと、とてもとてもあたたかく、微笑んだ。
 それから、言った。
「……まあ、単に俺が読んでみたいってだけかもしんないな、志田の文章を。この感性が本気になったらどんな表現するんだろう、って」
 あ、好きだ。その時、私は思った。
 線香花火の玉が紅く熟して地面にぽとりと落ちるように。葉に溜まった水が雫となって零れるように。とても自然に、私はそう、思った。溜めて溜めて、おさえておさえて。知らないわけがないのに知らないふりをしていた気持ちをほどいたら、切なくて苦しくて甘くて、息ができなくなった。
「先生」
 私は言った。声がか細く震えていた。言えたならいいのに。言えないならば、気づかなければよかったのに。だって気づいてしまったら、こんなに好きだって気づいてしまったら、叶わない日がいつか来ることを認めなきゃいけないじゃない。
「……ありがと」
 それと、好きです。心の中で言ったって、先生には聞こえない。どういたしまして?全く授業料余計に取りたいくらいだよ、と笑う先生が、とうめいな膜の向こうにいるような気がする。追いつけないのだ。届かないのだ。きっと、この先、ずっと。
 でも、好きです、好きでした。無理やり過去形にしてみれば、苦しさで恋しさが紛れてくれるだろうか、なんてバカなことを考えた。

 三崎先生が出ていったあとの教室は、なんだかひどくよそよそしい。もう夏休み中に、補習を受けにここへ来ることはないからかもしれない。用がないなら、さっさと帰りなさい。ほのかに先生の気配を残した空気に急かされるようで、私はそそくさとドアを開けた。
「あ」
「……翼」
 なぜか、ワイシャツ姿の翼が、教室の入口に立っていた。いちばん会いたくない人に、会ってしまった。
「その格好。部活は」
「今日オフだよ」
 じゃあ三崎先生は、私の補習のためだけに、わざわざ来てくれたのかもしれない。今更ながら申し訳なくなる。翼の横をすり抜けて廊下に出ながら、早口で聞いた。
「どうしたの。わざわざ」
「別に……忘れ物、取りに来ただけ」
 翼は決まり悪そうに目をそらす。それからロッカーを開けて、中を雑にあさった。私は一人で廊下を進んだけれど、すぐに忘れ物を見つけたらしい翼はあっという間に私に追いついてしまう。
 私たちは黙って歩く。階段を降り、玄関を出る。あいかわらず鬱陶しいほど元気な太陽が、私たちの肌を容赦なく焦がす。校門を出て駅への道を歩き始めても、翼はまだ私の半歩後ろをのろのろと着いてくる。
「何か用」
「別に」
 じゃあついてこないでよ、とは言えずに黙り込む。そう遠くない駅までのルートは一つだけしかなかった。
「テニス、いいとこまで行ってるらしいね」
「まあ。これからが勝負かな」
「頑張ってよ」
 そう言うと、なぜか翼はため息をつく。通りかかった商店の中から、かき氷を削る音が聞こえた。あ、いいな、と少し後ろ髪を引かれる。
「そっちはどうだったの、補習」
「どうって、どういうことよ」
 私は翼の方を見ないようにしながら言った。会いたくないときに現れるし、言いたくないことを聞いてくる。本当に、翼なんて、大嫌いだ。
「三崎先生。二人だったんだろ、今日」
 早まる鼓動に合わせて、体温が少しずつ上がっていくのがわかる。俯いたまま言う。
「だから何?ワークやって、添削してもらって、そんだけだよ」
「チャンスだったんじゃねえの、言わなくてよかったんだ」
「ほんっとに、バッカじゃないの?」
 ほんとにほんとに、どうして分からないんだろう?私は大股で歩く。まとわりついてくる熱気を振り切るように、ぐんぐん、ぐんぐん、歩く。
「言ってどうなるの?砕け散ればいいと思ってんの?」
「違うよ」
「じゃあなんでこんな事聞くの?どうにもならないことくらいわかってたよ、でも私」
 好きだったんだよ。
 呟いたら目の前が見えなくなった。悔しい。翼にだけは、絶対、絶対、泣いているところなんて見せたくなかった。
「なんにも知らないくせに」
 ふと、翼のスニーカーが踵を返す音がした。こんなことを言われて、怒ってしまったかもしれない。しょうがない、か。早く帰ってしまいたかったけれど、目の前で信号が点滅し出して私は足を止めた。全く、どこまでも、格好がつかない。
 鼻をすすりあげて涙を拭うと、ひとつ、何かが終わってしまったような感覚がした。心臓がまだ、どきどきと脈打っている。しばらくして信号が青に変わっても、私は歩き出せなかった。自転車や車で通りかかる人たちが怪訝そうに私を見た。
「ほら」
 翼の声は、低い。三崎先生よりずっとずっと男らしくて、でも感情がすぐに滲み出てしまうから、後ろから声を掛けられたってすぐに分かるんだ。あ、翼だ、って。私は控えめに振り向いた。すきとおった赤が、目を射した。かき氷。
「食え」
「やだよ、いらない」
「食えっつってんだろ、置くぞ」
 翼は背後から私の足元にかき氷を置く。ただでさえ暑い日差しの下、熱せられたアスファルトが氷をじわじわ溶かしていく。
「ねえ、溶けるよ」
「じゃあ食えよ」
「いいって」
「あのな」
 汗をかいたかき氷の容器が、アスファルトにシミを作る。私の額からも、一粒、汗がこぼれた。
「なんにも知らないのは、そっちなんだよ」
「どういうこと」
「志田が好き」
 瞬きをしたら、溜まっていた涙がひとつぶ、まぶたを乗り越えた。あああ、今日はほんとに最低だなあ、先生との夏休みも終わっちゃったし、大嫌いな幼馴染には会っちゃうし、でも、でもなんでかな?さっきの二文字が耳に冷たく染み込んで、かき氷のシロップみたいにとろりとお腹の底まで届いていく。
「なんか、言えよ」
 私の足元で、いちご味のかき氷が溶けていく。信号がまた青になる。じりじりと揺れる太陽の下で、私たちは黙ったままだ。かっこわるいなあ、ほんとに、私たちはやっぱり子供だなあ。
「バーカ」
 小さくしゃくり上げたら語尾が震えた。頭の中で、甘い甘い、冷たいシロップが、のどをとおって胸に染み渡る。でも、現実の私は意地になったみたいに動けない。
 これから、やっと、夏休みだ。私は強く、思う。
 ねえ、こんなに切ないなら、いっそ終わらなきゃいいのに。氷が溶ける。雫がこぼれる。信号の前にいて、炎天下で、後ろに翼が立っている、今、この時。これから始まる、夏休み。
 終わらなきゃいいのに。私の足元で、氷の山が、くしゃ、と潰れた。

(完)

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