見出し画像

生きるために食べるためにつくる、を教えてくれた本

 料理は、私にとって趣味以上のものだ。息をするのと同じくらい、自然なこと。それでいて神聖で特別なこと。食材に触れる、切る、焼く、煮る、揚げる、全ての動作にパワーがみなぎる。

 いつからそうなったのだろう。もともと、料理の手伝いをすることが好きだった。母は私が小さい頃から抵抗なく台所仕事を教えてくれたし、そのおかげで家庭科の授業ではいつも褒められた。でも、本当の意味で「料理をしたい」と思うようになったのは、たぶん高校を卒業してからだ。

 きっかけには、心当たりがある。「人生を変えた」かどうかはともかく、私にとって大切な大切な一冊。もっとも、それに気づいたのは後になってからだけれど。

 小川糸さんの、「食堂かたつむり」だ。

 初めてこの本を読んだ時、私は高校生だった。本の虫だったあのころ。お金がないから、たいていのものは図書館で借りて読んでいたのが懐かしい。今月のおすすめコーナーに置かれていた、少し表紙のすり減った単行本の表紙を、ありありと思い出せる。

 主人公の倫子が、恋人に出ていかれてしまうところから、話は始まる。家財も全て持ち去られ、声までも失った倫子。残ったのは祖母の形見のぬか床と、自分の身体だけ。仕方なく、家を出て10年、一度も帰っていなかった故郷の山奥へ戻り、そこで小さな食堂を始める。飼い豚に愛を注ぎ、全身全霊で料理をし、母との確執を少しずつ和らげていく日々が、倫子の目線でどこかたどたどしく描かれる。

 とても有名な本だし、映画化もされているから、その後の展開を思い出せるひとは多いだろう。賛否が分かれるあの場面だ。(そして残念なことに、嫌いだという意見がなかなかの多さ。仕方ないような気もする。)
 ガンになり余命宣告を受けた母は、最後に愛する飼い豚を「食べちゃおうと思って」、その計画を倫子に託すのだ。食肉となった飼い豚エルメスは、倫子の手により美味しい料理に変身し、たくさんの人たちの血や肉に生まれ変わっていく。なんとなく見ないでおいているので、映画でどのように演出されたのかは知らないが、エルメスの解体シーンは、言葉でつづられたものを読むだけでも衝撃的だった。血の匂いがするような気がした。内臓のぬるりとした温かさを手のひらで感じている気持ちがしたし、倫子の息遣いがいつの間にか自分にも伝染した。

 生と死だとか難しい考察ができたわけじゃない。でも、その場しのぎみたいになんとなく生きていたその時の私に、「食堂かたつむり」は人知れず、ジワジワ刺激を与えていった。それから頭の中にずっと残っていた物があった。倫子が作った独創的な料理の数々だ。ザクロカレー。コトコト煮込んだジュテームスープ。削ったばかりの鰹節でとっただし茶漬け。料理の名前や、食材の一つ一つの響きを、想像の舌でじっくり味わってはうっとりした。ことばのすべてが私の細胞にゆっくり働きかけているかのようだった。

 知らず知らず、私は徐々に料理にのめり込むようになった。気になる料理や聞いたことのない異国の料理、手間のかかる料理を片っ端から作っていたように思う。もちろん失敗も多かった。家族もおかしなものばかり出されて大変だっただろう。よく我慢して食べてくれてたと思う。

 それから高校を卒業し、料理とは関係ない仕事についてしばらくした頃、私は思いがけないところでこの本と再会する。妹の素敵な親友ちゃんが、「食堂かたつむり」を私にとプレゼントしてくれたのだった。(詳しい意図は今もわからないが、本を贈るって素敵なアイディアだと思う。)私は感激し、もう一度読み返した。自分でも知らないうちにこの本から大きな影響を受けていたと気づいたのは、この時のことだ。

 ほんの少し大人になった私は、倫子がとんでもなく強いひとであることがわかるようになっていた。大事にしていた豚をも捌いてしまえたからとか、そんな単純なことではない。
 倫子は、食材がいきものであることを知っている。そして、いきものが食材であることを知っている。たくさんの命に支えられて生きてきた倫子の体はその分、辛いことに敏感に反応する。でも、だからこそ、何があっても、声さえ失っても、しぶとく逞しく、命を食べながら生き続けることができたのだと、そう思ったのだ。

 生きるために食べる、そのために、つくる。
 だから料理は、生命活動の一部である。

 私はいつしかそう信じるようになっていた。そして、そのつながりが自分の中にストンと落とし込まれた時に、料理は私にとって趣味以上のものになった。食材に触れることへの愛情や喜びが生まれた。それから静かな敬意のような、厳かな感情も。ああ、私、この小説がきっかけで料理が好きになったんだなあ。高校の図書館で見つけた古びた一冊が、ひっそり原点になってくれていたのだ。それに気づけたのは私にとって宝物のように嬉しいことだった。

 そして今日、このエッセイを書くために、久しぶりに読み直してみた。生々しいな〜、と思った。数えもしないほど読み返しているので、もちろん知っていることだけど、それにしてもなんと言うか、全てにおいて生々しいと、やけにそう感じた。料理の描写だけじゃなく、登場人物の感情も、生き様も、肌や息の生温かさが伝わってきそうなほどに、どこか生き物くさい。でも、そうだ、食べる方も食べられる方も紛れもない、いきものなのだ。綺麗事だけで生きていられる世界じゃない。とっても美しいと思っていたラストは、確かにうつくしいが、綺麗ではなかったことに、はたと気づいた。

 窓に激突して死んでしまった野鳩を、倫子は調理して食べる。亡くなったおかんの声が聞こえた気がして。死を、むだにしてはだめだと、言われた気がして。生気をうしなっていた倫子に使命感が宿り、無心で鳩を調理する。そして焼き上がった鳩のひとかけらを飲み込んだ時、倫子はあれ、と思う。透明になっていた声が、その時、戻ってきたのだった。

 死をむだにしてはいけない。
 そうか。むだにしてはいけないのは、死なのだ。命、ではなく。
 命をむだにしないためにおいしくいただくというのは、人間本意でおこがましい。同じようでいて違う。これは、私の口に入るために、死んだのだ。それを理解している人は、強い。たぶん、ダメージを正面から受けて傷だらけになりながら、それでもしぶとく生きていける。倫子みたいに。だってわたしたちも、血と肉でできてる生身のいきものなのだから。

 これから先、私はこの小説をまた何度も読み返すだろう。その度に見え方が変わっていくと思うと、読書って本当におもしろい、と思う。そしてそれほどまでに私を刺激し豊かにしてくれる本に出会えたことに、感謝せずにはいられない。

 その後の私はというと、料理が好きになってからしばらくして、当時していた仕事をやめ、調理場でちょっとだけ経験を積んだ。一人で勉強して調理師免許を取り、今はまた別の職についたが、思いがけない形で料理に関わることもできている。食からはじまる世界の広さを目にすると、いつまでたってもワクワクする。いつの日か食堂かたつむりみたいなカフェを開いてみたいなあ、なんて空想することもあるけれど、それが目標かと言われるとちょっと違う気もしてくる。

 たぶん私の目標は倫子なのだ。生き物を、食材をいとおしむこと。心と体で包み込むように、それらをそっといつくしむ。丁寧に、あますところなく調理し、全身全霊で、命をとり入れる。そうやってこしらえた料理で周りの人をそっと、陰ながら笑顔にしていく、そういうこと。料理を前にした倫子のたたずまいは見とれてしまうほどかっこいい。そうなれたらいいな、私も。

「身近な人に、喜んでもらえる料理を作ろう。
食べた人が、優しい気持ちになれる料理を作ろう。
たとえちっぽけな幸福でも、食べた後、幸せになる料理を、これからもずっと、作り続けていこう。
ここ、食堂かたつむりの、世界にひとつしかない厨房で。」

この記事が参加している募集

読書感想文

人生を変えた一冊

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。