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宗教としてのSNS。

どんなことがあっても最後に「だから、面白かった」と結論づけるようにしている。鷹揚なる紳士のたしなみである。

毎日、身の回りには大小様々なことが起きるが、それをどう受け取って処理するかの訓練に、SNSは役に立つ。起きたことすべてに誰かの落ち度を探して苛立っている人もいるし、攻撃したり、揶揄したり、諦念する人もいる。

ちょっと宗教じみた考え方ではあるんだけど、良くも悪くも自分に降りかかる出来事には何か意味があるのだと思っている。キリスト教にも仏教にも艱難辛苦を乗り越えることによって人は成長するという意味で「試練」という考え方がある。

と言うほど大げさな話じゃないんだけど、毎日のハードルをまたいでいく訓練から生まれる軽やかさがその人の足の長さを決めて行くんじゃないかと思っている。目の前に「ハードルがあってムカつく」と怒っていても仕方がない。足が長い人は何も感じないだろうから、それに苛つくのは自分の短足のせいだと反省する方がいい。

ではなぜSNSなのかというと、我々は日常的に座禅を組んだりミサに行ったりする習慣がないから。SNSでの振る舞いはその人の生き方の多くの部分を表している。どんなに重大な社会問題があろうと、食べたもののことしか言わない人もいれば、やけに大きな義務感にかられて誰かを攻撃する人もいるし、身の回りのどうでもいいことにわずらわされている人、自分はいかに他人より優れているかをマテリアルに語る人、と様々だ。

タイムラインを見て欲しい。毎日文句や愚痴ばかりを言っている人が、あなたには幸福に見えているだろうか。

もしSNSが懺悔の場なら誰かが助けてくれるかもしれないし、心が落ち着くかもしれない。だから求めるならそこには「善意のヒューマニズム」が生まれ得ると信じている。

俺は一昨日、急に京都に行ったんだけど、友人の店はたまたま休みで行くことができなかった。それもまた一つの運命だ。残念だと感じる必要はなく、次に行く楽しみは残っている。そこで偶然出会えた初対面の人も何人かいたし、会おうと思って会えなかった人も結果としては全部オッケーなのだと受け取っている。

その癖をSNSでつけることができる。単純だけど、どんな不運にも「であるから、面白かった」と書き結ぶ練習をすればいい。

自分は自分に騙される。考えていることは脳内で完結するが、外に向けて提示したことはもう一度客観性を持って自分に戻ってくる。「こういうことがあった時に自分はこんな風に言っていた」と後から読み返し、もし邪悪な自分が見えたら次にはそれを言わないようにする。そう心がけていると「あの駅員がむかつく」「職場のあの人がダメだ」みたいにつまらないことを言わなくなる。

我々は神なのか仏なのかは知らないけど、誰かが監督している映画の出演者だから、監督の演出に文句をつけても運命は変わらない。与えられた役をいかに演じるか。「あのエキストラ、文句ばっかり言ってるな」と「あいつはいい芝居をしているからもっといい役をやろうか」の違いだ。皆さんよき週末を。おはようございます。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。