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生き苦しさのなかでも恋をするように

誤解を恐れずに率直に言う
生き苦しい、生き辛い、とてもとても

いつも自分自身に何らかの制御をしていないと
たくさんの感情や情報がひとりでに雪崩れてくる

こういうことを臆面なく言うと
自称HSP気取りは自分を守るためだけで
人を傷つけるだとか
承認欲を満たすためのアクセサリー感覚だとか
プライドが高いだけで心が狭いだとか
散々な言われようをするのだと知っている

そう言われても仕方ないと一線を画すより
ないのだけれども、ひとりでに流れ込む感情や
誰のせいでもなく感じる緊張感に対して、や
いつも自分自身の意思によらず、
消えてしまわないかおかしくなってしまわないかと
細心の注意を払い続けなければならない苦労を
私自身は少しは労ってあげなければと思う

たとえばそれは
火事場のなかで煙を吸い込まないように
身をかがめて息を止め続ける様のようだし
たとえばそれは
焼け爛れた皮膚に軟膏やガーゼもつけず
吹き荒ぶ風や水に晒し続けるようであるし
それを緩和するために
水中でもがく姿を見られないように
水面に別の自分を浮かべ続けること

格好をつけているわけではない
むしろ格好をつけずに自由そのままでいたい
人と距離を置いて孤高ぶっているわけではない
むしろ人の輪の中に在りたいと思う

流れ込んでくる感情や情報に
泣いてしまうのを堪え続けることは
大きな負荷だし、やり場なく溜め続けること
大声を上げて泣いても良いと言われても
それで戻って来られるか不安だからできない

こんなに苦しくて格好の悪いアクセサリーは
ないと思うし、外せるなら外したい

それを分かって欲しいわけでもない
分からないことだと思うから
けれど、誰かと比べて自分は大変なんだ
と言うつもりはまるでないし
人を理解することはとてつもなく難しい
と私自身が思っている
せめて放っておいて欲しいし
偏って決めつけた言葉は思っていても
発しないで欲しい
少なくとも私には当てはまらない
そう思うからずっと訴え続けているけれど
届かないだろうな
むしろ、これを種火に更に激しくものを言う
くらいの予想をしている

こんな風に思っていなくても多くの人は
簡単に他者の前でありのままでいられる
わけではないとも思っている
『ありのままの自分』
そんなポエムみたいなフレーズを安っぽいと
思うのは、それだけ簡単なことではない
何よりの証拠だと思う

そんな中でも、絵や写真といったアートを
前にした時には何というか、ひらいている
気がする
浅学さゆえ、技術や歴史はからっきしだし
これでまたアートを分かってるみたいにされると
また批判や非難のネタにされるので
何が分かっているかというと、何も分からない

絵や写真からも流れてくる感情や情報があって
大いに振り回されるけれど、そこに身を任せる
ことは嫌な気分かしない
むしろ、開放(解放)される気がする

まるで詳しくないし、分からないからこそ
ありのままで流れ込むことに委ねられると思う

最近行ったいくつかの個展も本当に
泣きじゃくってしまいそうで、ずっとそこに
いたいとすら思った

また春が来て、何年経っても
ずぅっと慣れない
大人になるってこういうことじゃなかった
ように思い描いていたのに
生きるということをたくさん練習しても
ずぅっとぎこちなくて強張ってる

たくさんのアート作品に触れて
何を受け取っているかとかは説明できない
(してもチープで嘘っぽくなる)
けれど、なくてはならないもののような
気はしている

また格好をつけてるけれど、
息抜きのための趣味でしょ
馬鹿らしい
そんな声も聞こえてきそうだけれど
それはそうかもしれないし
そういうものとは少し違うよ
と思ってもいる

何もかもことばにすることは容易いけれど
何もかもそれが伝わるわけではないから
時としてことばを捨ててしまいたくなる

それをことばにしているから矛盾している
けれど、その矛盾のなかにある『仕組み』に
私は縛られているし、少しだけ救われてもいる

たんなるにっき(その105)

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