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わたしが音大を辞めた理由

このトピックについて書くのはとても苦しい。過去のことを思い出してはその感情を再体験することになるからね。でも一方で、この人生経験をなにかにまとめたいと思ってしまう自分もいる。

今からそんな、2年前に起きた出来事を綴ります。

音大をやめた理由、これに関しては、一言で○○だから!と言い切きることはできない。私は二歳前からピアノを弾いてきた。経験したことの大きさを考えると、大変な決断で、たくさん悩んで、落ち込んで、苦渋の末に出したものだった。

理由は、精神面。
私は15歳の頃にうつ病と診断された。原因は家庭環境と、学校と、音楽にあった(尚、私はまだ未成年だったので、診察の際医師はいつも言葉を濁しがちだった。何故今原因を明示できるかと言うと、私自身沢山の本を読んで精神疾患や原因について勉強したからです)。

21歳、大学二年生(一年休学済み)の冬、患っていたうつ病がいよいよ手に負えなくなった。後期の実技試験前、年末休みに東京の下宿先から実家に帰ってきた途端、突然音大に戻るのが、ピアノを練習するのが辛くなってしまったのだ。『もう無理。』って思った。
自分の中で何かが壊れてしまった気がした。
試験も近かったことから何回かピアノを練習しようとしたけれど、倦怠感があり、ピアノの前まで来てもピアノを弾けなくなった。曲を通す力がなくなってしまった。曲の重さにも潰れてしまっていた。

母も異変に気付き、ずっと部屋にこもっていて練習をしない私を心配していたが、説明がつかず、自分でも何が起こっているのか分からなかった。しまいには、「またおかしくなった」と放っておかれた。
(私の母は精神病に対して全くの理解を示さない人です。)


音大の友達と連絡を取りたくなくなった。覚えているのは、1月5日、ずっと伴奏を受け持っていたフルートの子と合わせがあり学校で練習する予定だった。その日に東京に帰ろうとしていた。

ただ、私はそれをすっぽかした。駅まで行こうとした。でも、無理だった。音信不通になった。
今まで表向きには真面目だった私を知っている友人たちから、心配のLINEやら電話やらが大量に来ていた(これは二か月後、意を決してLINEを開いた時に判明する)。

LINEの通知を切り、インスタからログアウトし、Twitterもアカウントを消した。

人々が自分のことを忘れてくれるよう切望し、終いに自殺を考えるようになり、人間らしい生活が出来なくなった。音大を既に休学して(尚休学料は57万円)いるに関わらず、また学校に戻れない、ピアノを弾けない。そんな自分が嫌で、申し訳なくて、恥ずかしくて、それでも頑張れなくて、どうしようもなかった。

クラシック音楽を聴きたくなくて、聴けなくて、音という音が恐ろしくなった。母のピアノ教室には毎日生徒さんが来る。楽しそうに弾くピアノが聞こえてくる度に吐き気がした。毎日部屋で泣いて、家族と顔を合わせられないから昼夜逆転していた。具合が悪すぎて布団から起き上がれずトイレに行くのも一苦労だった。

高卒になるの?これからどうするの?社会に出て私はやっていけるの?
と何度も不安になり、学歴主義の家で留年なんてあり得ないと思いこみ、もう誰も自分を愛してくれないんじゃないかと怖くなった。(これは誤謬すぎる。今思うと。)

15歳でうつ病になってから、それでも私はピアノを弾き続けた。多分ね、私本当にピアノが好きだったんだろうね。練習はできたの。
中三までは勉強(塾にまで行って英語と数学を勉強していた。私立だったから土曜日も授業があったのに!どんな忙しいスケジュールなんだ)
にピアノに、二つとも頑張って両立できていたけれど、高校生になってから勉強が前ほど手につかなかった。留年警告を三年連続貰った。

それでも、ピアノの成績はぐんぐん伸びた。コンクールにも出まくった。
先生たちからしたら意味不明な生徒だったと思う。朝起きられない理由を「頭痛」ということにしていたので、私は酷い片頭痛持ちとされていた。
それなのに週末はコンクール受けるし、たまに賞に絡む。勉強面でも、定期テストの勉強だけはしっかりしており、下手したら100点に近い点数を取っていた。学校来ないのに勉強、ピアノとなんか成績良い奴だった。

途中うつ病の悪化とともにピアノの成績が伸び悩むことはあったけれど、音大には学部トップ3で合格できた。ただ、これがピークだったのかな、と思う。

音大生になると、今まで中高と音大受験を目標にピアノを弾いていたのが、突然『人生』が目標になる。どのような人生を歩みたいか、その為にはどのくらい練習しなければならないか。

音大生になってから、自分はいよいよ壊れてしまったな、と今振り返ると思うね。

二年生の年末休み、何かが自分の中で壊れてしまってから、毎日泣いて、ベッドから起き上がれない日々の繰り返しだった。しかし一方でこのままではだめだ。と感じる自分もいた。
このまま音楽の世界に居たら、私は何も変わらない、と。

遂には死んでしまう、とまで思った。うつ病はそれほど、怖い病気である。

高校から音大に進学する過程で、環境は変わった。それなのに、自分の体調は良くなるどころか悪化している。私は私立音大だったので、授業料は年間200万円を超える。なんで親に何百万も払ってもらって、私の体調は年を追うごとに悪くなっていっているのだろう?とバカバカしくなってきた。

父親に言われて忘れられない一言がある。
「ピアノってさ、死にたいって思いながら弾くものなのか?」

私は常に全力でピアノに取り掛かってきた。考えてみたら、いつの時代も、その時出来る限りのことをやった。
驚かれるかもしれないのですが、私はピアノ人生において後悔していること、一つもないんです。
「もっと練習すればよかった」とかありがちなんですが、私は出来る限り練習しました。そう言い切れる。どの時期も、本気でピアニストを目指し、本気で上を目指していた。

だからこそ、自分の限界も分かって、スパッとやめられたんだけどね。

退学します、と学務の先生方に言うと、皆さんまずとても心配して下さった。
一日でもいいから学校に来てくれないか、あなたの為に試験を開くからどうにか弾いてくれないか、と言われた。ただ、私はもう分かっていた。一年休学したに関わらず体調は悪化の一方。もう無理だった。

退学すると決めてから友だちにそれを告げられるようになるまで3ヶ月かかった。
私が想像していたより、友達は私を心配してくれていた。温かい言葉をたくさん貰った。
音大生同士ではライバル意識もあるけれど、何よりお互いに辛さが分かる、それが音大生の良いところだと思う。
みんな、あの時は本当にありがとう。
皆の言葉にたくさん泣いて、また、もっと人を頼っても良かったのかなと思えました。


もう親にお金に関して迷惑をかけたくないと思った。自主的に、誰にも相談せず音大を退学してから、私は「働こう」と決めていた。実際に面接を申し込むところまで行った。
しかし、私の家柄は学歴主義である。ひいおばあちゃんでさえ音大(藝大)を卒業している(Crazy)。父に頼むから大学は卒業してくれ、と、ただ変な大学にお金は払わないと言われた。通信制大学は却下された。行くなら早稲田慶応上智だと言われた。

私の弟は現在、東京工業大学で学んでいる。
ただ、高校も進学校に通っていた弟でさえ一浪している。
私は、弟がどれほど本気で勉強して、努力して、悔しがって、喜んでいたかをこの目で見ていた。だからこそ、そのような大学に私が合格するには年月がかかりすぎてしまうと思った。

そこで、高校の成績と英語力で入学できる海外の大学に目を向けた。英語は中学生までどうにか頑張っていたし、何より興味があったし、海外で勉強することは夢であった。小さいころから、「YOUは何しに日本へ」や「こんなところに日本人」「世界番つけ」など海外をテーマにしたTV番組が大好きだった。小学生の頃、ハーフの塾の先生に、「先生、国際結婚ってどうしたらできますか」と尋ねた程。笑

英語だけに集中して勉強して、今マレーシアの大学で心理学を学んでいます。

今でもピアノは好き?と聞かれる度に、なんと答えるべきか分からない。私の中でピアノは、好きor嫌いで答えられる場所にいない。寝る、食べる、それと同じくらい自分の人生にとって当たり前のことで、好きか嫌いかなんて考える隙間はない。
好き、という言葉では足りないほど私は音楽を愛しているし、嫌い、という陳腐な言葉に収まらないほど苦しい思いをしてきた。


マレーシアの大学生になってから、私は自分を取り戻したように感じる。
またピアノを弾けるようになったし、クラシック音楽を好んで聴くようになった。

いつか、将来、私はまたピアノを弾くと思う。
私は聴く、側でなく、弾く、側だと自分でも思う。


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