見出し画像

映画「花束みたいな恋をした」に感動したので。

 映画「花束みたいな恋をした」が大ヒットしている。
 脚本・坂元裕二(「カルテット」「最高の離婚」「問題のあるレストラン」etc.)、監督・土井裕泰(「映画 ビリギャル」「罪の声」「麒麟の翼~劇場版・新参者~」etc.)、主演・菅田将暉&有村架純というビッグネームが集結しており、公開前からドラマ・映画ファンを中心に話題を呼んでいた。
 そんな話題映画だが、公開からわずか1か月の2021年3月2日時点で、週間映画観客動員数ランキング5週連続1位、興行収入約22億円という驚異的な大ヒットを記録している。
 配給元「東京テアトル」は大手配給会社ではなく、制作会社もインディペンデント系の会社である。さらにいくら脚本家や主演が有名で事前の期待値を上げていたとしても、原作のない完全オリジナルストーリーがここまでの大ヒットになったことは、異例中の異例と言ってもいいだろう。
 
 そんな大ヒット映画「花束みたいな恋をした」を、2021年2月中旬に劇場で鑑賞した。
 ここまで一言一言のセリフに集中し、登場人物の動作や表情、セットやロケ地にまで目を凝らした映画は、未だかつてないかもしれない。
 男女の5年間、恋愛の始まりから終わり&その後までをここまで濃密に、そしてハイコンテクストに描くとは。
 上映が終了した後もしばらく呆然とし、頭を整理するために次々と印象に残ったシーンをメモし、さらにはAmazonでシナリオ集を購入していた。
 今回は印象に残ったシーンを整理しつつ、この映画のすごさをある意味自分のためにも言語化していく。
 凄すぎる作品の凄さをちゃんと言葉にしたい。

※かなりネタバレが含まれます。ご容赦を。


1.固有名詞の多用。リアルなカルチャー描写。

 この映画の特徴と言えば、作品タイトル、人物名、地名、すべてがシナリオに深く絡んでくるところである。

 主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が意気投合するきっかけこそ、世界的アニメ映画監督「押井守」(代表作:「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」、「機動警察パトレイバー the Movie」など。)である。
 京王線「明大前」駅で終電を逃した際にたまたま居合わせた麦、絹を含む男女4名(このとき麦と絹は面識がない。)で深夜まで空いているカフェバーに行く、というシーンが序盤にあった。
 そのとき麦は店内で飲んでいる「押井守」を発見したが、そのすごさをその場では相手(絹以外の2名)に理解してもらえなかった。
 しかし解散後、絹とそのすごさを共有することができ、これが2人が恋に落ちていくきっかけとなるのだった。

押井守

 ※劇中写真

 (まさか本人役として押井守が映画に登場するとは思っていなかったが)このシーンでは文化への関与が高い2人にとって「」である「押井守」と、いわゆる文化への関与がそこまで高くないと思われる一般人(ここでは麦、絹ではない男女2名)がイメージする「映画」の例としての「実写版・魔女の宅急便(要はジブリ版ではない)」という2つのワードの対比が、より「2人(麦と絹)の愛する文化への特別さ」や、「この特別な空間のすごさを共有できないもどかしさ」をより強調している。

 帰り道で絹が勇気を出して麦に話しかけたことにより、麦と絹はバーにいた「」についてようやく興奮を共有することができた。
 その足でたどり着いた2件目の居酒屋での2人の会話はまさに「固有名詞」に溢れた2人だけの世界だった。

ceroの高城さん
Roji
穂村弘
長嶋有
今村夏子
天竺鼠
菊地成孔の粋な夜電波

 居酒屋での麦と絹の会話で出てきたワードの一部である。(実際はもっと多くの作家や作品タイトルが出てきた。)
 これらのワードの中には意味が分かってハッとするものもあれば、なんとなく聞いたことがあるもの、将又まったくわからないものもあった。
 このシーンを、最初自分は2人の趣味趣向を観客に明示するためのものであると思っていた。だが、鑑賞後にこの作品の監督である土井裕泰氏のインタビュー記事を読んだときに、2人の会話の演出意図について、気になる証言があった。

土井「2人が初めて会った日に、居酒屋で『ceroの高城(晶平)さんがやってる店』『あ、Rojiですか』っていう会話があるじゃないですか。思わず坂元さんに『これは、ほとんどの人がなにを言っているのかわからないと思うんだけど、いいですか?』と聞いたら、『ほかの人がわからない話で2人がこんなに盛り上がれている、つながっているっていうことだけが大事なので、これでいいんです』って言われて、そこから本作に取り組む上での自分の立ち位置というか、すべきことがクリアになったんですよね」

「坂元裕二、野木亜紀子が信頼を寄せる土井裕泰の 『花束みたいな恋をした』は、なぜ“テレビ的”ではないのか?【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】」より。
取材・文:宇野維正

 他の人からしたらわからない話で盛り上がれる2人。なるほど。
 たしかに居酒屋でお互いの好きなものについて話している2人の姿はとても楽しそうで、なおかつ微笑ましいものだった。

 この後も、2人とその周囲をたくさんの固有名詞が彩る。
 まだ付き合う前、2人の会話の中心となるのは「ゴールデンカムイ」や「ほしよりこ」などの漫画についての話。
 付き合いだした後、家デートで2人が読む漫画は「宝石の国」。
 一緒にやろうとしたゲームは「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」。

※自分だけかもしれないが、2人の同棲する部屋のシーンで、本棚が映る際、やたらと「AKIRA」が画角に入るようにカメラアングルを設定しているように感じた。

ゴールデンカムイ

©野田サトル

画像4

©市川春子

 「ゴールデンカムイ」や「宝石の国」は2021年時点ではアニメ化もされているが、この物語の序盤である2015年~2016年ごろにはまだアニメ化もされておらず、今よりも知る人ぞ知る作品であった。
 2人の文化への感度の高さはもちろんのこと、休みの日に2人が本気で没頭できる趣味に時間を割けることの幸せさなど、固有名詞を通じて様々な要素を感じ取ることができた。
 これらが実在する作品や人物ではなく、架空の言葉やパロディだった場合、ここまでの親近感やリアルな空気感を出すことはできなかっただろう。
 「ゴールデンカムイ」という実在の作品が使用されることによって、より2人以外の人とは決して共有できない(もしくは共有しない)、2人だけの世界が創られていることが伝わってくる。覗き見するのが申し訳なくなるくらいだ。



 ストーリーの本筋には関係ないのだが、固有名詞に関連して個人的に印象的だった会話シーンを1つ。
 麦、絹、絹の両親(早智子、芳明)の4人での食事会のシーンなのだが、このときの麦と芳明のセリフが忘れられない。

芳明「君はワンオクとかは聴かないの?」
麦 「あ、聴けます
芳明「チケット取ってあげるからワンオク二人で行っておいで、ワンオク」

 芳明は絹から「価値観が全力で広告代理店」と揶揄されており、麦と絹とは社会的にも文化的にも正反対の立ち位置にいる人物として描かれている。
 そんな芳明が「自分が知っている若い人に流行っている音楽」として「ワンオク」というワードを出し、麦はそれに対して「聴けます」と返した。
 「聴きます」ではなく「聴けます」なのだ。
 麦は別にメジャーカルチャーを憎んでいるわけではない。だからおそらくワンオクも普通に知っているし、MVを観たことくらいはあると思われる。
 だがここで「聴きます」と答えると「ワンオクが好き」というニュアンスにも捉えられる。そうなるといわゆる「広告代理店側」のエリアに侵食することになってしまう。
 「聴けます」と答えることによって「聴かないわけではないが、自分が好むのはあくまでそれとは別のものである」という静かなる反抗ではないのか、と考えた。
「ワンオク?嫌いじゃないけどもっと良い音楽を俺はいっぱい知ってるよ。」みたいな。
 余談だが、2021年1月に発売された「花束みたいな恋をした オリジナルシナリオ」ではこのシーンでの芳明のセリフが

芳明「チケット取ってあげるからワンオク二人で行っておいで、ワンオク(ワンオクと言いたい)」

と表現されていた。そうか、「ワンオク」って言いたいんだね。あとは「セカオワ」とか「ラッド」とか言いたいのかな。
 だが、これは何十年か後で芳明らと同じ世代に自分がなったときに、自分も若い世代の人に対して同じことをしているのかもしれない。
 年をとるってある意味怖い。

2.カルチャー・社会とのそれぞれの距離感。

 物語上、2人は大学時代の2015年2月に付き合いだし、2015年10月には多摩川沿いで同棲を始める。
 その後絹は、2015年11月よりアイスクリーム店でアルバイトと資格勉強を両立し、簿記2級の資格を取得後は2017年1月には歯科医院の経理担当として勤務を開始する。
 一方麦は、2015年11月よりWebサイト向けイラストレーターの仕事を1カット1,000円で開始する。だがギャラの割合が下げられてしまい、最終的には一方的に契約を切られてしまう。その後イラストの仕事を一度諦め、就職活動を始めるがうまくいかない。

 2016年~2017年ごろで麦のカルチャーへの距離感が徐々に変わっていく。

・観たい映画や舞台も仕事優先で結局観に行けない。
・「ゼルダの伝説」は買ったが忙しくて進めることができず、絹がどんどん先へ進めている状態。
・絹から勧められた本・滝口悠生「茄子の輝き」を出張先に持って行っても読まないどころかぞんざいに扱ってしまう。

 2018年になると、さらに麦と絹それぞれのカルチャーへの距離感の差が生々しく表現される。
 絹は仕事と趣味を両立し、大学時代からの自分のペースを崩さない。マンションでもアメリカの人気ドラマシリーズ「ストレンジャー・シングス」を観ているくらいだ。
 一方麦は、仕事と趣味は両立できない、と早々と決めつけてしまう。(絹の母親・早智子の「人生って、責任よ」という言葉の影響もあるかもしれない。)そして徐々に麦なりに絹との将来を考えたうえで、仕事への比重を高める。
 本屋で買う本も小説や漫画から前田裕二「人生の勝算」などのビジネス・自己啓発本へと変化していく。絹が「ストレンジャー・シングス」を観ている横でも、麦はビジネス書を読んでいる。

 2人の距離感は2018年4月のこの会話に詰め込まれていると思う。

絹「まだ仕事あるの?(ビールを示し)飲まない?」
麦「ゴールデンカムイって、今13巻まで出てるんだ?」
絹「うん?あ、うん、どんどん面白くなってる。(ポットを見て)もうちょっと待ってね」
麦「うん・・・(と、素っ気なく)」

 麦はあんなに大好きだった「ゴールデンカムイ」の進捗がわからなくなっている。(麦、絹の両名が就職活動に勤しんでいた2016年夏時点では8巻まで出ており、この時点では麦は巻数を把握していた。)
 「漫画の巻数がわからなくなる」は麦だけでなく、多くの人の文化との離別を象徴しているものの1つであり、実際に経験した人もいるのではないだろうか。
 好きだったものから自分も気づかないうちに距離を取っていた、そして戻ろうにも戻ることができない。これが現実なのだ。
 麦は他にも「宝石の国」の話が思い出せないこと、仕事をしているなかで趣味が「パズドラ」しか持てないことを嘆いている。
 「パズドラ」はこの映画の中では「頭を使わなくてもある程度楽しめるもの」のメタファーとして出てくる。麦は忙しい毎日の中で、大好きだったカルチャーのために頭脳を使うことができなくなっていたのだ。それはとても痛々しく映る。
 
 麦と絹の文化への距離感だが、2人それぞれの選択の理由は実は意外と単純なものである。
  絹は2018年、イベント会社の派遣社員へ転職し仕事に趣味を取り入れることに成功する。
 絹はここでは「やりたくないことはしたくない」と麦の前でも宣言するくらい芯の強い人として描かれている。楽しく生きることこそ、2人とっても幸せであると絹は考えている。
 大体絹の幸せは「2014年W杯準決勝で7点も入れられて大敗したブラジルよりマシならいい。」という基準でできているから。ある意味便利な性格をしているとも言える。
 対して麦は「好きなことを仕事に活かせるとは全く思わない」人物として、一見悪のようにも描かれる。
 だが、麦は麦で、2017年5月に絹に対して「人生の目標は絹ちゃんとの現状維持です」と宣言している。麦はこの目標を必死で守ろうとしているに過ぎない。
 お金がなかったら本も買えない、映画も観られない。麦は物語後半からよりリアリスティックな部分が表面化していくが、ある意味それも2人のための行動であると考えたら、麦も実際はとても芯の強い人物であると言える。
 2人でいるために麦は、劇中のセリフを引用するなら「今村夏子の「ピクニック」を読んでも何も感じない人」とも対峙することを選択する。

画像4

 ©今村夏子

 2人とも一番の望みは「2人で一緒にいたい」ということだったのだろう。
 しかし、そのために麦は「趣味を捨て」、絹は「趣味を守る」ことを選択した。
 2人とも何も間違っていないからこそ、このすれ違いはより痛く鋭利に突き刺さる。 

3.偉大なる青春。

 結果として、2人は2019年2月に別れることを選択する。
 2人の男女の濃密すぎた4年間はこうして幕を閉じた。
 しかし、この映画には続きがある。
 別れてから同棲を解消するまでの約3ヶ月間の話である。
 この3ヶ月間は、2人が「青春」を取り戻すための期間だったのではないかと思った。

 「花束みたいな恋をした」はカルチャーを好む男女と社会についての描写が目立つが、それとは別に青春の美しさ、瑞々しさを存分に味わうことができる作品である。
 この映画で描かれている「青春」はある側面から見たら「無駄」なものとして映るかもしれない。(BGM:SMAP「Joy!!」)
 例えば2人が同棲を始めたマンションは多摩川沿いの物件なのだが、最寄駅から徒歩30分という立地である。
 自分だったらわざわざそんなに不便な物件に住みたくない、と思ってしまう。
 しかし2人にとっては、最寄駅からの徒歩30分でコーヒーを飲みながらおしゃべりをする時間が何にも代えがたいものとして存在していた。
 他にも「3時間21分もガスタンクだけが流れる映画を創ってしまう麦」、「人数合わせでカラオケ屋に見えないカラオケ屋に行く絹」など、麦と絹は傍から見たら時には無駄な時間を送っている。
 だが傍から見たらなど関係なく、自分たちがそのときの感覚で良いと思えるものに向き合う(絹のラーメンブログもこれに当たる。)そのエネルギーこそが「青春」なのではないだろうか。
 大人・社会人になって様々な分別ができてしまい、さらに仕事に追われ日常も何か役に立つことをしないといけない、という思考になることもある。麦が「意識高い系」に肉薄していたのもその表れだろう。
 だからこそ遠慮なく無駄な時間を過ごすことができる「青春」がより尊く映る。
 
 そしてこの「青春」を2人が取り戻したのが、別れてから同棲解消までの約3ヶ月間なのだと思う。
 この3か月の間に、2人は一緒に映画を観たり、タピオカミルクティーを飲んだり、晩御飯を食べたりした。
 お互いの文化への距離感が決定的に違っていたがために失っていた時間を取り戻すかのように、2人は穏やかな日常を過ごした。
 時に楽しく時にダラダラと、2人の雰囲気は以前のものに近くなったが、だからこそ「青春」は完全には取り戻すことのできないものであるという喪失感もほんの少しだけ味わうことになる。  

4.最後に

 「花束みたいな恋をした」を今回は3つの項目に分けて書いたが、当然これ以外にも語られるべき観点はあるし、セリフ1つとってもまだまだ語りたいものばかりである。
 調布付近の街の雰囲気のリアルさ、カラオケできのこ帝国の「クロノスタシス」を歌う麦と絹の多幸感、などシーンごとに観ても共感できるものばかりである。

 そしてYouTubeなどの予告編でかかっているAwesome City Clubの「勿忘」。
 このバンドと麦・絹の結びつきも映画の重要ポイントの一つである。
 それにしても見事にバズっている。すごい。2021年3月5日にはAwesome City ClubはMステに出演している。

 麦・絹は2人とも「音楽を好きではない人」と一緒になることを選んだわけだが、それが2020年の彼らにとっての幸せなのだろう。
 自分のライフステージに合わせて可能な範囲でカルチャーを楽しむ姿勢は、自分も見習いたい。
 とりあえず自分はまだ読んでいない今村夏子の「ピクニック」を読むことにする。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?