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「杉山神社」に思うこと

杉山神社について

僕は横浜市に住んでいるのですが、近所に杉山神社という神社があります。この杉山神社は面白い神社で、「杉山神社」という名前の神社が鶴見川周辺の横浜市や川崎市などを中心に点在しています。その多くが五十猛命(イソタケルノミコト)や日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を御祭神としています。その歴史はかなり古いと思われます。「続日本後記」のなかで、838年には既に杉山神社という名前の神社があったことが示されているようです。また平安時代に編纂された「延喜式」では杉山神社は式内社として記録されており、当時でも、それなりに大きな信仰を集めた神社だったようです。

では、記録されたもの以前には、どのような形で信仰がされていたのでしょうか。ヤマト民族によって記された延喜式に出てくる段階で、武蔵国では有力な信仰対象だったのですから、それより以前から周辺の人々による土着の信仰対象だったと思われます。現在、杉山神社が残っている地域には集落の遺構が多く見つかっており、その古くは縄文時代まで遡るものもあります。つまり、その信仰の根源は平安時代どころではなく、2000年以上前から続いている可能性も十分にあると考えられます。そのような長い歴史を持つ杉山神社ですが、その名を冠する神社は全国的ではなく、主として神奈川県の一部に限られています。なぜ一部の地域にのみ存在するのでしょうか。

杉山信仰が局地的である理由

現在の杉山神社があるのは神奈川県の鶴見川や帷子川の下流から中流にかけてです。上流域まで行くと杉山の名を冠する神社はありません。全国的にみても杉山神社はこの地域に集中しており、他県には同じ杉山を冠する神社はポツポツとみられるものの、特別に共通点はなく偶然の一致だと考えて良いと思います。また周りには多摩川や相模川、酒匂川、荒川といった大型河川がありますが、これらの流域にもやはり杉山神社はみられません。

これは杉山信仰を持ったグループが、海上から東京湾を通って、鶴見川や帷子川の流域に定住し、徐々に上流へ勢力を伸ばしたことを伺わせます。ある一定のところを境に勢力が広がらなかったのは、その先にいた別のグループが、文化的・宗教的に大きく異なるものだったからではないかと思われます。それらは、たとえばエミシと呼ばれるグループであったり、荒川流域に多く存在している氷川神社の神様を信仰するグループであったと考えられます。

「杉山」とは何を指すのか

それでは海上から入ってきたグループとは、どのような人々だったのでしょうか。神奈川県の弥生時代から古墳時代にかけての遺跡では、関東地方で作られた土器だけではなく、東海地方などの遠方の土器と特徴が一致するものも少なからず発見されています。当時から船を使ってヒトやモノが、僕たちの考えている以上に、移動をしていたと思われます。その中で、杉山信仰を持ち込んだグループを推測するために重要なことは、のちの時代に杉山神社となる祭祀場が一体何を祀るものだったのかということです。

現在でも「杉山」が一体何を指しているのか、定説はありません。「海運を重要視していた民族が船を作るための杉を重用したから」とか「その場所が杉に覆われた山だったから」というような説があるそうです。結論を述べると、僕は「杉山」は「富士山」のことだと考えています。その理由を以下に記します。

「杉山」とは「富士山」のことである

最初に「続日本後記」には杉山神社についての記載があることを示しましたが、実は「杉山」ではなく「枌山」と書かれています。「枌」は音読みで「フン」ですが、訓読みでは「そぎ・にれ」と読みます。「すぎ」と「そぎ」の類似は偶然ではないと思っています。今でこそ「すぎやま」と発音しますが、もともとの発音が異なっていたのではないでしょうか。つまり、杉山信仰を持ち込んだグループは「そきやま」と発音していたのではないでしょうか。「そきやま」の発音に、のちに流入した漢字の当て字をした際に、当時の曖昧な母音が「すぎ」と「そぎ」の微妙な違い(suki,soki)を生んだのだと思います。

「そき」は「遠く離れた」という意味の古語で、万葉集でも使用されています。「やま」はそのまま「山」ですね。すなわち「そきやま」とは「遠く離れた山」を意味するのです。「そき」は漢字にすると「退く」ですから、使用する対象には時間と場所の移動が伴います。「昔はあったけど今は無くなった」みたいな文脈が潜んでいます。「そきやま」の祭祀場は、当時の人々にとって失われた山を奉る重要な場所だったはずです。

というようなことを踏まえて、僕の考えを時系列的にまとめると、こういう感じになります。

弥生時代から古墳時代にかけて、富士山の麓である現在の静岡県のあたりに住んでいた人々が、噴火や争いのような理由で移住を余儀なくされた。彼らは航海によって東京湾に入り、新しい安住の地を見つけた。それが現在の鶴見川や帷子川の下流域だった。生活しやすい土地を見つけることが出来た一方で、それまで祈りを捧げてきた偉大な富士山は、もはや遥か彼方に見えるだけとなってしまった。体の多くを丹沢山脈に隠してしまい、ほんの少し頭だけ見せてくれる富士山を見て、「なんて遠くに行って(来て)しまったのだろう」と「そきやま」に望郷の念を抱いたのである。そして、少しでも大きく富士山を拝めるように、集落近くの小高い丘の上で「そきやま」を奉るようになった。その勢力が広がると共に、それぞれの集落の近くの丘や山の上ではムラ単位で祈りが捧げられるようになった。のちにヤマト民族が漢字を持ち込みと「そきやま」は「枌・杉山」と当てられ、以後も土地神様として信仰を集めた。しかし、信仰対象はヤマト民族の神様(五十猛尊、日本武尊など)に上書きされ、当初の由来は分からなくなってしまった。

「杉山=富士山」説でのメリット

このストーリーでは、いくつかの謎を説明できると思っています。たとえば、杉山神社がある区域内のみで多く見られる理由です。これは他の宗教的・文化的に異なるグループとぶつかる境界までしか広がらなかったという理由に加えて、杉山神社を奉る「意味」も関係していると考えられます。つまり、スギヤマを信仰するグループにとっても、他のグループにとっても富士山は大事な山ですが、後者にとっては「退いた山」ではないからです。

多くの杉山神社が小高い丘の上にある理由も明確になります。それは、富士山が見やすい位置に立てられているのです。今は木が生い茂るような場所でも、昔は富士山を拝めることができたかもしれまでん。

また杉山神社の原初の信仰対象は長らく不明でした。山なのか、川なのか、岩なのか、池なのか、はたまた実在した人間なのか。でも実は、答えは名前に隠されていたのです。富士山を信仰するという意味では「浅間神社」とかに由来は似ていると思います。

おわりに

長々と書いてしまいましたが、私は言語学者でも歴史学者でもありません。気になった地名なんかをあーだこーだ言って楽しんでいるゴリラです。与太話程度に思ってください。学術的な価値はありません。
富士山の神様といえば「木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」ですが、これを杉山神社で祀っているところはない(はず)です。これはなぜだろう。まだ考える楽しみがいっぱいありますね。
でもやっぱり晴れた日の丹沢と富士山は綺麗で、そこに超越者の力を感じざるを得ないんですよね。昔の人も同じように感じたんじゃないかなあ。

山のゴリラ

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