言葉から「私」の在り処を探る。言葉とは何か?考えたことある?
「世界はない」を言葉から考えるに続く第2段。
言葉の力強さをうたった広告やメディア、SNSの投稿は多い。たとえばこんな具合だ。
・言葉に救われた
・この言葉があったからやってこれた
・言葉に後押しされた
確かにその通りだろう。言葉とはなにか?について、上記で述べた結果としてでなく、本質的な機能としてそれなりの答えを持っている人は少ないように思う。
言葉には、なぜ力があるのか?
言葉でなければいけないのか?
言葉じゃなくてもいいのではないか?
たとえば、写真や音楽でも代替しうることは可能なケースもある。でも言葉でなければいけない時が絶対あるはずだ。
さぁ考えてみよう。
言葉は指し示すこと
言葉は、概念や、モノ・コトを指し示すことだ。ぼんやりとそんなことを考える人は多いだろう。もちろんそれは否定のしようもなく正しいことだ。
人はそうやって、言葉で何かを指し示しながら生きている。じゃあ「指し示す」はどういうことだろう?
そこにある醤油をとってくれる?
醤油のそばには、胡椒と爪楊枝と、ティッシュ箱がある。でも間違いなく醤油を取ってくれるだろう。
世界に醤油という言葉がなかったとする。
あの黒い液体とってくれる? そこにソースがあれば正確には伝わらない。
透明なガラス容器に入った液体をとってくれる? 醤油とは限らない。
大豆を発酵させたそこの調味料とってくれる? 以下同…
いかに醤油という言葉がなければ、醤油を指し示すのが難しいかわかるはずだ。
蛇足的だだ、醤油というのは、世界にいくらでもある。じゃあなんで目の前の醤油だと百人が百人わかるのか。ここは、言葉の大切な要素である関係性という部分なので機会があれば語ってみたい。
言葉は、ほかの概念や、モノ・コトと区別する
じゃあ、言葉は概念や、モノ・コトを指し示すことだと説明したが、ほかの言い方もできそうだ。
言葉は、ほかの概念や、モノ・コトと区別する。
というより概念や、モノ・コトは、区別することでしか表現できない。
話を進める。
言葉が指し示す概念や、モノ・コトのなかで、最もクリティカルな問いの一つ。
私とは何だろう?
「私」ってなに? 私って何だろう。
難しい問題だ。あなたをバラバラにしても、手は間違いなく「あなたの」手だ。あなたの足。あなたの髪の毛。あなたの心、あなたの思考。すべての「あなたの」ということができる。
でも肝心のあなたって? あなたそのものは、あなたをどれだけ細分化してもでてこないっておかしい。
あなたはどこにいるのだろうか? いま思っている主体そのものという考え方がある。
我思うゆえに我ありってやつだ。ただ、思っている主体とは何だろう?認識主体はどこにあるのか? 脳? 心? 魂?
いまのところ誰にもそれはわかっていない。哲学的にも解決していない。
しかしだ。私についてわかっていないことが多すぎのに、私とそのほかの人は区別できる。間違えることはない。
もうわかっていると思うが、それは言葉があるからだ。その内実はよくわかっていないが、言葉があり、私がある。それだけは確実にいえそうだ。
言葉がなければ、私はないとはもちろん言えないが、もっともっと曖昧な存在であることは確かだ。
言葉には、実態がよくわからないもの、言葉以外で定義できないもの、言葉以外で区別できないもの、を指し示す、もしくは区別する力があるらしい。
それが言葉の力の源泉であるかもしれないということはなんとなくわかる。
この話で広がる話題は二つありそうだ。
そもそも言葉がない赤ん坊の世界って? 言葉を獲得していかに豊かな世界を広げてゆくのか。
注意する必要もありそうだ。言葉の意味を考えず、実態も考えず使っていては、正しくモノゴトは認識できない。言葉の牢獄にはまってしまう、という話だ。
言葉シリーズ第1弾【「世界はない」を言葉から考える】
文章シリーズ第1段【紙とWebの違い①| 提供するニーズの大きさ】
文章シリーズ第2段【"超"文章力教室|書き方は決まっていないけど、文章力の本質を見極めよう】