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"超"文章力教室|書き方は決まっていないけど、文章力の本質を見極めよう


「一文は短く」

「体言止めは使わない」

「主張→原因→具体事例」

「いいたいことを先にする」

「読みやすい・分かりやすい文章」

こういうのを見る度に、まじでうるせえって思う。確かに上記のような文章の書き方のノウハウは間違っていないのだろう。じゃあ、これの言う通りにやれば文章はうまくなるか? 基本的には難しいだろう。

というか、こういうノウハウを「文章が根本的に上手くなる至上のメゾット」として扱う人は、なんというか違う位相で文章を見ている気がしている。というか、危険だ。

コンテンツの中身と箱のマッチング具合

文章力を保証するものは、コンテンツの中身と、その箱だ。それ以外はない。これは反論のしようもないことだが、ここらへんを整理せずに主張されている方が多い。

『文章の書き方』という本があるとしよう。そこで伝えているのが、読点の打ち方や話の展開の仕方、分かりやすく・平易な文章のノウハウだとする。まぁ確かに、ひどく極端な文章力の捉え方をすれば、上手くなる可能性もある。

しかし、もっと包括的な大きな意味での文章力というなら、本当に本当の一部分でしかない。

もしこの本を読めば、文章力全般が上がると主張しているなら、嘘だ。文章力の一部分のさらに一部分しか磨くことができないからだ。

コンテンツの中身とは

まずはコンテンツの中身について。

この中身の部分について言及している本やWebコンテンツは少ない。それに伴ってか、箱だけ立派で、いざ開けてみると、めちゃくちゃ面白くないおもちゃが入っていることが多々ある。

もちろんそれは間違っていることではない。文学作品にだって、多々ある。

でもそれは、現場流布している文章の当たり前に対するアンチテーゼを唱えたいのであって、明らかに意識的にそうしている。つまり、「こんなめちゃくちゃ箱あってもいいやん?」とか、「箱じゃなくてプールで良くない?」みたいなめちゃくちゃデカい刀で当たり前を一刀両断する感じ。

中身の話に戻ろう。ぱっと思いつくものでもコンテンツの中身はいろんなものが考えられる。

文芸作品では、「自身の強烈な体験」「愛の定義をくつがえすような愛の話」「社会に訴えかけたい主張」などなど。新聞やニュースメディアは「事実」というコンテンツ。ビジネスなら、ユーザーのニーズに応えられるコンテンツ。

それぞれ目指す中身はあるが、その中身そのものが面白いかは難しい問題だ。誰も主張・気づいているしていない独自性、時代や流行・価値観に合致しているかの社会性などの媒体ごとの価値判断があるし、それは複雑だからだ。

一口に言えないし、ものすごく難しい問題だ。これは何か機会があれば考えたい。いまの論点は、コンテンツと文章と包括した文章力は何か?という話だからだ。

文章とは

じゃあ、コンテンツの中身の箱となる文章をかたちづくる要素とは何だろう。

・文:句点〔。〕ごとで区切られる一文

・段落(一文が集まったかたまり):文体を主に形作る

・構造:起承転結・序破急、物語・コンテンツの展開方法


すごくざっくりだと、こんな感じだと思う。文章のノウハウで、文のルールが完璧でも、段落や構造がめちゃくちゃなら文章はうまいとはいえない。

文・段落・構造をそれぞれ見て(世間一般のルールに則って)完璧であり、コンテンツの中身がめちゃくちゃ面白くても、文章力があるとは認められない場合もあると思う。

共通の答えはないが、コンテンツごとに答えがある

つまり、コンテンツの中身と文章のバランスが文章力を形作るということだ。

一つ、南米文学で旗手で、ノーベル賞作家でもあるG・ガルシア・マルケスの例を出したい。年齢や言い方はうろ覚えだが、要点だけ掴んでほしい。

マルケスが世界的な名作の『百年の孤独』の中身を着想したのは、10代の頃だ。しかし、百年の孤独を出版したのは30歳前後であり、実に10年以上の月日が経っている。何も10年以上、書き続け、推敲を続けていたわけでない。「文章の箱」が見つからなかったのだ。

南米の一家族のサーガを書きたいという思いこそはあれ、それを表現する文章や描き方がわからなかったというのだ。

参考に百年の孤独の冒頭を紹介したい。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。

確かに魅力的な文章だが、時間軸や論理構成はめちゃくちゃともいえる。仮に直してみると、意味がわからないが(というよりこの表現でしか表現できない)、魅力は減退する。

アウレリャノ・ブエンディア大佐は、銃殺隊の前に立つはめになった時に思い出していたに違いない。それは遠い昔、父のお供をした時に初めて氷を見たあの午後のことだった。

中身と文章どちらが先か?

どちらが先か。結論から言うと、どちらでもいい。ガルシア・マルケスは書きたいことがあり、それに合致した文章で表現した。

小説だけみても分かるが、つぶさにみればどちら(中身からか箱からか)から出発し(一概には言えないが)、どの部分にアンチテーゼを唱えたいのかがわかるはずだ。

上記の説明の通りだけど、以下の感じでまとめてみたい。

・コンテンツの中身によって適切な箱(文章)はまったく異なる。

・箱(文章)によって適切なコンテンツの中身はまったく異なる。

ここから広がる論点は2つある。

・じゃあどうやったら文章力がつくのか? 上記の点を踏まえての方法論

・インターネットの進展で、コンテンツの中身と箱さえよければいいという時代は終わった。箱の置き方や、箱を置く店の内容も個人が魅力的にしなければいけない。編集力も必要になっている

順番に書いていきたい。


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