夫の体温が私のものよりも少し高いと知ったのは、結婚してから1ヵ月後のことだった。誘ったのは(というとなんだか露骨に聞こえるかもしれないが、それでも、誘ったのは)わたしの方からで、三重になっている綿一〇〇パーセントのガーゼケットの柔らかさが肌に優しく、それはわたしたちの素肌を外気から守るのにふさわしいと思えた。そのときのわたしたちは少し酔っ払っていて、なぜなら結婚一ヶ月の記念日を入念にお祝いしたからだったのだけれど、そのときにはきっと、こういう流れになるだろうことがわかってい
今回の選挙で、自民党は「大敗」したらしい。日本は少しでもいい方向に変わるのだろうか。にわかには信じられないけれど、ひとまず投票に行っていてよかった、と思う。今度生まれてくる姪に、「こんな日本に成り果ててしまうまで、おばちゃん、何してたの?」とか言われる未来は避けたいし、普通に給料が上がってほしい。せめて残業しなくても生活が成り立つくらいに。(ここでいう「生活が成り立つ」というのは、週に一回くらいは外食できて、月に一冊くらいはハードカバーの小説を買えるくらいの生活です。)あと
何度寝返りを打っても眠れないので水でも飲もうと、ぎゅっとつぶった目を薄く開く。開け放したドアの向こうにあるリビングの壁がぼんやりとした薄青い光に包まれていて、薄目のまま目を凝らす。宇宙人でもいたらおもしろいのに、とありもしない妄想を膨らませる(もしかしたらあるのかもしれないけれど)。もし、リビングの薄青い光の源が宇宙人なら、わたしを連れ去ってくれるよう頼みこむ。きっと人間のことを知りたいと思っているだろうから快諾してくれるはず。それで、未確認飛行物体というのに乗せてもらって
コンゴ系フランス人のラップを聴きながら、街の光がどんどん後ろに流れていくのを眺める。等間隔に並ぶ街灯のオレンジ色に照らされた道路を走るバスの中で、白々とした蛍光灯の光にさらされた手元に視線を落とす。 「今バス乗ったよ」 「ちょっと混んでる」 「二十分くらいで着くと思う」 一つの吹き出しに全部詰めてしまうとなんだか重たくなってしまうから、いくつかの吹き出しに分けてメッセージを送る。 「おっけ」 「家で待ってる」 すぐに、短い吹き出しがポンポンと画面に現れる。 本当はバス停
「はい、吸って。吐いて」 畳の上に仰向けに寝転がったまま、伸びやかな声に合わせて呼吸をする。「吸って」と「吐いて」の間にある時間が意味ありげに流れていく。 「はい、吸って。吐いて」 呼吸に合わせてゆっくり膨らみ萎んでいくお腹を感じる。皮膚の張りと緩み。毛細血管の隅々まで酸素を行き渡らせる感覚を捉えようと試みる。 「優しく、柔らかく、あたたかなオーラに包み込まれ、その中で呼吸をしています。吸って。吐いて」 そんなこと言われてもと思いながら、ピンクとオレンジが混ざったような
わたしの知っている彼は、いつもずぶ濡れだった。 早朝の雨で濡れた建物が、朝陽を反射して輝くまばゆい光の中で、あるいは、今日一日ずっと降り続けるだろうと予感させるような薄暗い土砂降りの雨の下で。 決まって雨の日の朝に出会う彼は濡れた黒髪がよく似合う男で、水の滴るカッターシャツがぴったりとはりついた皮膚は、たくましい筋肉をなめらかに覆っているのがよくわかった。(今考えると大変失礼だが、そのときは、)つい目が離せなくなるような顔立ちではないのに、なぜこんなにも目が離せなくなる
何か特別なことがあったわけでもないのにすぐに落ち込んでしまうのは、子どもの頃からの悪い癖だ。もはや直すことのできない性格と言ってもいいかもしれない。我ながらやっかいだなといつも思う。ほとんど妄想の域から出ないのだけれど、目の前の事象と自分の心の中に渦巻く感情とを強く結びつけてしまって、それで、目の前の事象に怒ったり、憎んだり、反対に人一倍喜んだりする。あるいは、目の前で起きてすらいない、過去や未来のことに対しても。わたしを側から見ている人は、きっと困惑するだろうと思う。わた
「適応障害って診断、つけときましょうね。診断書も出しますから、ひとまず仕事は一ヶ月間お休みしてください」 精神科の先生はいとも簡単に言った。病院からの帰り道、特に精神科にかかった日の帰り道は、なんだか暗い顔をしていなければならない気がする。今思えば、そんな気がしていなくても無意識で暗い顔なのだけれど。 狭い路地を抜け大通りに出て、駅までの道のりを歩きながら、「あ〜あ」と思う。あ〜あ、これからどうすんの、と。一ヶ月休んだところで状況が変わるわけでもなし、さらに行きたくなさが
旅行の最終日だろう人々から醸し出される独特の空気を、今わたしも纏っているのだろうか。楽しかった充足感と、それに比例したようにずっしりと重い、引きずるようにして持つ荷物。家に着くまでにこれから乗らなければならない乗り物の多さを考えながら、空港に行くために二つ乗り継いだ電車に揺られながら。 空港に向かう旅行者の大きくカラフルなスーツケースと、一様に黒いスーツに包まれた夕方の帰宅ラッシュのサラリーマンの対比を見ながら、短歌が読めそうだ、とぼんやり考え乗客を見回す。わたしの目の前
「ねえ、もし生まれ変わるなら何になりたい?」 暑さの残る九月の風呂上り。恋人はいつもくだらない質問をしてくる。 「ほら、あるじゃん、そういうの」 「ん~じゃあ亜樹は?」 どういうのだよ、とはつっこまずに、ひとまず時間を稼ぐ。 「ん~俺はね、ネコかな。安達さんに飼われてるネコ。ずっとくっついてずっと頭撫でてほしい」 「ネコ……」 「えっ、重い?愛が重い?」 「や、そういうことじゃなくて」 「なくて?」 「そうなんだ、と思って。あんまりネコって得意じゃないけど」 「来世の安達
「あら、お久しぶりです。今回はおめでとうございました。ほんとうにもう、毎回優勝、すごいですねえ」 「いやいや、もうこれで最後と思って気楽にやったら毎回ね」 「いや、それがええんですわ」 「いやあ、もう……」 大きな総合病院だ。待合室の広く高い天井に、おじいさん二人の声が響く。 . 昨日、6限の体育の時間に足を挫いた。男女混合のバレーというだけでも最悪だったのに、みんなの前で突然こけたのはもっと最悪で、しかも体育は三クラス合同だから、あの場に合計100人はいたんだと思うと恥
「結局リサはさ、ほんとのこと、一回も言ってないよね」 冷房の効いた夏の夜のファミレスで、セフレに告げられる言葉としては重い方だと思う。冷静を保とうと、頭の中でそんなことをぼんやり考える。 「ほんとはオレのことどう思ってるの?やっぱり、ただのセフレ?」 そんなこと言われても……とか、よくわかんないけど……とかそういう言葉が浮かび、笑って誤魔化す。 「そっか」 何も答えないうちにそう言われてそっと、胸を撫で下ろす。氷で少し薄まった、まだ冷たいジンジャエールを一口飲む。 「じ
千疋屋でパフェを食べるときは、ジンジャエールと決めている。 二〇二四年七月十六日 ご無沙汰しております。今回の東京出張はなんと三か月ぶり。それに伴い、こちらのブログ更新も三か月ぶりとなってしまったこと、ご容赦ください。 そういうわけで、今回は三か月分のパフェを堪能しようと東京は日本橋、千疋屋総本店に行って参りました。 グラスに注がれたジンジャエールを一口、口に含んだ後で、千疋屋スペシャルパフェを待つ間、吉岡はスマートフォンに文字を打ち込んでいく。あとでブログ記事にす
無音に耐えられなくなった、と思う。 イヤフォン(それもコードレスの) を持ち歩くのがあたりまえになってから。カフェで一人ソイラテを飲むときも、家と仕事の往復のために乗る、片道二駅分の電車と四つの停留所分だけ乗るバスの上でも。 何かしていなきゃ、という出ところのわからない焦りに追い立てられて、とにかく何か意味のあることを、と、何もかもが入ったカバンの中に手を差し入れかき回してイヤフォンを見つけ、もたつく指を急かしてイヤフォンを耳に突っ込む。音楽配信アプリを立ち上げ、昨
突然、地面を打ち付ける激しい雨音がして、目の前の桃から意識が逸れる。どのくらい降っているのだろう。降水確率は四十%だったけれど。 立ち上がって窓にかけ寄り、レースカーテンを両手で開けると、降りしきる雨で辺り一面、靄がかかったようになっている。こういうのを、「バケツをひっくり返したような雨」というんだろう。あかりは思わず窓を全開にする。こういう時、マンションじゃなくて一軒家にしておいてよかったと思う。だって、地面がとても近い。開け放したままの窓辺に立ち、しぶきを上げる雨の奥に
例えば、わたしたちは目的地に着く前に、もうすでに疲れている。疲れ切っている。 例えば、本当に食べたいお菓子ではなく、「ストレスを低減する」とパッケージに大きく書かれたチョコレートを選ぶ。たまに、それは「睡眠の質を高める」や「疲労感軽減」という文字に変わる。どれも似たり寄ったり。 例えば、一冊の本を読み切ることよりも、一時間長い睡眠の優先。 例えば、地球環境を思いやりながら紙ストローで飲むプラスチックカップに入った甘いコーヒー。 例えば、虐殺に加担する企業の商