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短編「雨と桃」

 突然、地面を打ち付ける激しい雨音がして、目の前の桃から意識が逸れる。どのくらい降っているのだろう。降水確率は四十%だったけれど。
立ち上がって窓にかけ寄り、レースカーテンを両手で開けると、降りしきる雨で辺り一面、靄がかかったようになっている。こういうのを、「バケツをひっくり返したような雨」というんだろう。あかりは思わず窓を全開にする。こういう時、マンションじゃなくて一軒家にしておいてよかったと思う。だって、地面がとても近い。開け放したままの窓辺に立ち、しぶきを上げる雨の奥に目を凝らす。
「やっぱり。またやってる」
 夫の、呆れと柔らかなからかいを含んだ声に振り返ると、あかりを見つめながら、なんだっけ、と何か思案している。あかりがこうしている理由を思い出そうとしているらしい。
「『No.6』だよ。あさのさつこの」
 そうだ、と言いながら夫も窓辺に立ち、雨の中一緒に目を凝らす。しばらく二人でそうしていた後、ふいに夫がこちらを向く。
「子どもの頃に読んだ小説の一場面をずっと覚えててさ、それに憧れ続けるというか、好きでい続けてさ、大雨のたびにこうして窓を開け放して、なんか、すごい。あかり」
 一人マンションの十階で、窓を全開にして母に怒られていた子どもの頃のわたしが聞いたらものすごく喜ぶだろうなと、あかりは思う。夫は、今のあかりだけでなく、過去のあかりも、未来のあかりも、喜ばせるのがとても上手だ。
ありがとうの代わりに、目の前にある胸板にぴったり顔をくっつける。
「そうだ、桃食べる?」
 抱きしめたまま顔をのぞきこむ。うなずく夫の頬が桃色で、毎日こんなふうに生きることができる自分たちが、突然なにか誇らしく思える。絶え間ない時間の中に宿る、この大きくもある小さくもある幸せは、ささやかな努力の成果でもあるからかもしれない。意志をもって、掛ける言葉一つにしても、あるいは口に出さない言葉一つにしても。触れる手の、物理的なだけではないあたたかさにしても。
 窓はもう少し、開け放したままでいることにする。いつ、「ネズミ」が来てくれてもいいように。

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