短編「旅の途中」
無音に耐えられなくなった、と思う。
イヤフォン(それもコードレスの) を持ち歩くのがあたりまえになってから。カフェで一人ソイラテを飲むときも、家と仕事の往復のために乗る、片道二駅分の電車と四つの停留所分だけ乗るバスの上でも。
何かしていなきゃ、という出ところのわからない焦りに追い立てられて、とにかく何か意味のあることを、と、何もかもが入ったカバンの中に手を差し入れかき回してイヤフォンを見つけ、もたつく指を急かしてイヤフォンを耳に突っ込む。音楽配信アプリを立ち上げ、昨夜寝る前にダウンロードしておいた最新の洋楽を流してやっと安心する。とりあえず、世界の最先端は追えている。洋楽、とりわけ世界で有名な歌手が歌う曲を聴いている。それも、なんたって英語、外国語。大丈夫、大丈夫。わたしは今、意味のある時間を過ごしている。
そんなふうにして「意味があるかどうか」で判断して過ごす日常に果たして意味があるのかどうかはわからないけれど、少なくとも安心はできる、と思う。周りを見てもイヤフォンを耳につけていないのなんて、子どもとその手を引く親、大人数で乗ってきたおしゃべりなグループ、そしてうちの祖父母くらいの年齢の人たちだけだ。スーツを着た男女、オフィスカジュアルの服を着た男女、学校の先生風の人や、大学生風の人たち、単語帳をめくっている高校生だって、みんな。「みんな」の響きに安心するわたしはきっと、「正常」で、だからきっと安心する。
小学生のときの図工の時間に、りんごを真上から描いたクラスメイトが先生から怒られていたのを思い出す。
「普通、りんごは真横から描くものでしょう。みんなと違うことをしないの。みんなと違うことで目立とうとする人は嫌われるよ。みんなと違うっていうのを個性だなんて思ってたら、大間違い」
そのときは突然の激昂した先生が恐ろしかったけれど、それからなんだか、「今わたしは普通だろうか、みんなと違うことをしてはいないだろうか」と、無意識のうちに考えることが多くなった。何をしていても、突然水をぴしゃりとかけられたようなら気持ちになって、何かが台無しになっていく感覚を、だけど救おうともせずここまできてしまった気がする。
あのとき先生が怒ったのはたぶん、図工の前の英語の時間に、帰国子女だったそのクラスメイトが、自分よりも流暢な英語を話したのが気に入らなかったんじゃないかな。それに彼女、小学生にしては背がすごく高かったから、きっといつもりんごを見下ろしていたのかも、なんて、今は思うけれど。先生の言葉も間違っていると、もうわかっているけれど。
それでもまだこうして、イヤフォンごときで、みんなと同じで安心するなんてバカげている。けれど、自分も含めたそんな人たちのことをバカにはできない。切実だから。本当に。みんなと同じであることに。何かしら、前に進んでいることに。
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新幹線に揺られながら、佐々木は脳内に流れる思考をそのままに景色を眺める。ビルも、大きな看板も後ろに流れ、今度は広い田んぼと立派な屋根の家々がゆっくりと流れていく。
家と家の間隔がすごく広いから、あれならストレス発散に大声で歌っても近所迷惑にならないな、などと考えて、やはり久しぶりにイヤフォンをつけずにじっくり自分の思考の中に入っていくのはいい時間かもしれない。
あのときの帰国子女だったあの子はどうしてるかなあと、流れる思考に自分を委ね、うとうとと遠ざかっていく思考の合間に、自由のようなものを感じた気がした。
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