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23. ふたつの「ドライブ・マイ・カー」に触れられた喜びを語る


その晩、遅くまで原稿書きをしていて、朝にどうにか提出を済ませ、谷町九丁目(大阪市)に打ち合わせにいったら、「来週の水曜だよ」と言われた。(一週間間違えていた)

OH NO! 仕方ないので、40分くらいディレクター氏と雑談をして、このまま帰るのも悔しく、映画館で「ドライブ・マイ・カー」を観る。

村上春樹原作の「女のいない男たち」、濱口竜介監督の作品だ。


濱口監督の作品は、神戸塩屋にある洋館「神戸・旧グッゲンハイム邸」を舞台にした「スパイの妻」1本だけの鑑賞をしていた。「女のいない男たち」も本棚には眠っていたいが、まだ読んでいなかったので、個人的にしごく、楽しみにしていたのだ。


冒頭のシーンから、わっとひきこまれる。

濱口竜介監督の撮る映像世界と声の物語が、交錯し、奥行きや、さらに広がりをみせていく。

原作の短編「ドライブ・マイ・カー」のストーリーと、チェーホフの書いた「ワーニャ伯父さん」の交錯。ふたりのワーニャ、ふたりのソーニャがいた。(家の中で、車の中で)セリフを朗読する妻の声と、キャストの感情を込めない台本読みからの「ワーニャ伯父さん」戯曲「ゴドーを待ちながら」が、作品に執拗なまでにからもうとし、「亡霊」のようにつきまとう。過去からさかのぼってきた時間からの声だーー。

「ドライブ・マイ・カー」の短編も読まないし、映画も観てないよ、という方にとっては、なんのこっちゃ、の内容であるのはごめんなさい。

でも、近年の日本の作品のなかで、ここまで観ながら陶酔していった作品は久々でした。

この作品から、わたしに伝わったのは、ありのままに生きることの困難さ、苦しさ。それはそのまま人の人生の困難さ、辛さに通じる。
人の心をのぞきみすることは不可能…。できることは自分をただ、ただみつめ、心にまっとうに生きて、相手にそれを、さししめすこと。それがあなたの大事な人の救いになる。

「あなたを愛した音さんも、別の人と寝た音さんも、どちらもほんとうの姿であったと認めることはできませんか」

このセリフは、胸にずーんときました。
(原作では異なる言葉をつかっていましたが)。

人間を等身大で受け容れるということは、自分のことも受け容れること、になるのですね。 

言葉で表現することがおこがましいけれど。純文学の深さを知った映画でした。


帰宅してすぐに、デパートから買い求めた「のどぐろ」の寿司を12カン食べて、純米吟醸の日本酒を一杯のみながら、すぐ原作を読み始めた。一気に三編読む。「ドライブ・マイ・カー」と「イエスタデイ」そして、「木野」だ。

そして、さらに衝撃をうける。

映画には、映画としての完成度があり、原作は原作としての完成度があり、ある意味、わたしは別ものだと思っていた。この「ドライブ・マイ・カー」に関していえば、原作をとても深く理解し、村上春樹という書き手をリスペクトして、作品性を翻訳し、新しい自分の映像世界を作り出したのだと……。


作品を作品として昇華をさせるための、監督の、この仕事への「熱量」みたいなものが、そうさせたのだろうと思っていた。


ただ、原作の本を三編読み進めただけで、映画のタイトルこそは「ドライブ・マイ・カー」であるが、「女のいない男たち」の全編の力でもって、この映画にさまざまな角度から光をあて、そこからみえてきた世界を監督が誠実に映像にしたのかもしれないと、いま、改めて思っている。

いい作品でした。映画が魅せた物語も、もちろん原作も。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」もぜひ読んでみよう。


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