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58. 本の中の声


 旅先でふと気に入った書店を見つければ、ここは良い町かもしれないと思い、気持ちのボルテージがぎゅーんと上がる。そこがたまたま古本屋だったりしたら、短い人生の中でふたたび訪ねる町になるかもしれない。

 古本屋には、客と主人の間に、沈黙の駆け引きがある。客はこの店の選書のセンスがいかほどかという目で本棚の隅々まで見ていくし、店主は本物の本好きか、それとも読書家まがいか、などと静かに人間を見ておられるような気がする。

 東京の神保町や中目黒、谷中などには、面白い古本屋がいくつかある。京都の出町柳や鹿児島にも忘れられない店がある。
 たいてい店は静かだ。縦横の通路は薄暗い。ざーっと目を走らせるも、スクッと塔婆のように立っている本がある。手を伸ばす。紙は凛としてやわらかい。

 ご主人は、まるで1カラットの宝石を計り売りするように、眼鏡ケースから専用の眼鏡を取りだし、表紙や裏表紙、奥付や見返し紙などを丁重に確認し、わが最愛の子を自分の指先でなでまわしてから専用のカバーをつけて、手渡してくれる。


 こういう書店を後にして思い出すのは、昔々小学三年生の時の自分の姿だ。
 その頃は父が泊まりこみで旅館家業にいそしむ中、母と二人だけの生活が続いていた。勉強、勉強と尻を叩く母は、算数が苦手な私を、ついに夏季の学習塾に入れた。少人数制の塾で黙々とドリルを解き、間違えたところがあると先生が隣へ来て解説してくれる、まあ悪くない塾だったと思う。ただ私は教室へ行くのが苦痛で「塾に行ってきまーす」と告げて家を出ると、ある本屋へ足を向けた。

 木戸をガラガラと横に開いて入るこぢんまりとした店で、私は二時間も塾をさぼって、本を手にとっては戻すことを繰り返し、時間を潰した。夜の時間は客が私一人という時も多く、私は本屋のおかみさんにみつからないように、活字の森に隠れたつもりだったけれど。今思えば店主は知っていながら見逃してくれていたに違いない。お小遣いを持たない〝小さなお客さん〟は、本を買わず、見てばかりだった。が、印刷された紙の匂いや厳かな装丁の雰囲気、冒頭を拾い読みするうちに、心はシンと落ち着き、何時間でもそこにいられた。
 読書は、読み手の人生がつまった暦のようなものであり、あくまで個人的な愉しみだと思っている。

 本の作品は、誰かが書いたその時から、あるいは印刷という工程を経て誰かの手に渡った時から、それぞれの時間を生きていくものではないかという気もする。工藝品や美術と同じである。

 そういう本をつれて帰れば、新刊は一気読みするし、古本となれば何年もかけて、ちびちび読む。初版に近くなればなるほど、活字の掠れや印刷の墨の乗り具合、紙の黄ばみなどにも、その時代の陰鬱な空気が流れているように思うし、不思議なもので、作家が息をころして集中した時間や、かきあぐねる苦悩まで見えるような心地がする。
 活字と活字の間から、書き手の声が聞こえてくるーー。

 言霊、という日本の古い言い伝えを信じている。 

 文字を書いたり、口から放った言葉が、魂をもって現実に起きることだそうだが、言葉は人の滋養になったり、救いになったり、あるいは感情に任せた暴言がたいそう人を傷つけたりもする。

 日本では神社のお祓いや祈祷の祝詞は、神主さんが払い清める祈りの言葉。エジプトやメソポタミアでは、文字を扱う「書記官」は神に仕える身分の人だったらしく、自然のなりたちや祭を記すことで国の繁栄を願ったのだろうか。中国伝来の漢字は呪術から生まれ、ネガティブなものを祓う御守りだと、なにかの本で読んだ。
 よくも悪くも言葉には魂が入る。
 その時、その瞬間しか捕まえられない言葉がある。


 ともあれ、文字を書く、話す、読むことは。決して流暢でなくともいい自分の躰から出た嘘のない言葉を書き、話し、そして心ゆくまで味わいたいと、この頃、特に思う。


    葉月乃蓉果(はつきのようか)  2024.04.25  写真は神田神保町で


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