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うちの父に時代が追いついて尊敬しなおした話

わたしに反抗期があったとするなら、高校3年生~大学時代だったと思われる。
遅い。遅れてきた反抗期。

その当時は父も母もおそらく心の調子をすこし壊していて、今よりももっと未熟だったわたしには「大人が心を壊す」ということを理解できていなかった。

今でこそ理解できる。
働きながら家事のほとんどを担うことは大変だ。
当時の母は家事をおやすみしていた。
仕事一筋の父は毎日帰宅も遅く、同じ屋根の下に暮らしていても顔を合わせることがほとんどなかった。だから父がどんな状況だったか、実際のところよく知らない。無口だし。
わかっていることは母から聞かされる「お父さんも難しい時期だから」との情報のみだった。

父と母のあいだでどんなやりとりが交わされていたのか知らないが、大学受験を控えたわたしに家事のしわよせと母のヒステリーが当然のように降り掛かってくる。

お父さんはちょっといろいろ難しい状況である。
妹も妹で思春期を迎え、いろいろ危なっかしくて手も目も離せない。
なおあんたを大学に通わせるお金はないから、進学したけりゃ自分でどうにかしてくれ。
でもバイトはいけない。あんたが家のこと手伝ってくれないと困るから。奨学金などを利用しなさい。
こっちも大変だからあんたがちゃんとしてくれないと。
どうしてもっと協力できないのか。
そんなことを毎日ヒステリックにギャンギャンぶつけられ、いい加減わたしもキレた日には逆に熱々のカニ玉でピッチャー返しされた。

なぜわたしばかり毎日ハードなノックを受けなければならないのか。
なぜ妹はなんのお咎めもなしなのだ。
ぼちぼち限界である。
お父さんよ、あなたも大変かもしれないが、なんとか助太刀してくれよ。
じゅうたんに染み込んだカニ玉をきれいに掃除する一方で、心の染みはどんどん大きくなっていった。

耐えられなくなったわたしは意を決して父にSOSを求めたが、たったひと言で一蹴された。
「諦めなさい」

納得できるわけないだろう。
しかし父も父で怒らすととんでもない場外ホームランを飛ばしてくるため、ぐっと飲み込むしかなかった。
母からはピッチャー返しを食らい、父には場外ホームランこそ免れたもののしっかりスクイズを決められる。踏んだり蹴ったりだ。

無事に奨学金を借りられてなんとか大学に進学し、なんとか就職し、わたしも社会に出て仕事で追い詰められていくことになる。
ようやく両親の大変さがひとつ理解できたがしかし「諦めなさい」のしこりは小さくなるも消えたわけではなかった。

∽∽∽

わたしも気分屋ならうちの母親もかなりの気分屋である。
「明日の気分は明日になってみないとわからない」タイプの人間だ。
予定などあってないようなものであり、もしも友人であれば面倒くさすぎて距離を置きたい。友人になる前に知り合い止まりだろう。

父はそんな母とずーっと生活をともにしているのである。

母:明日は買いものに行くかもしれんから、そのときはついてきてくれる?
父:わかった。

翌日

父:今日は買いものは?
母:気分じゃないから、やめ。
父:わかった。


こんな会話が日常茶飯事だ。
とくに意識したこともなかったけれども、あらためて考えてみたら父すごい。

明日行くかどうかわからない買いもののために予定を空けておかねばならず、当日やっぱりなくなる。
約束もできないのにドタキャンをかまされるということを何百回、何千回も繰り返し、ひとつも腹を立てない父の温厚さよ。

わたしに「諦めなさい」といった父の気持ちが、今ようやくわかった気がする。
父は、母親のそこのところはどうしようもないと早めに見切りをつけていたがゆえの「諦めなさい」だったのだ。もはや父はお釈迦さまかなにかだろうか。
それにしちゃあ娘は煩悩のかたまりだが。

今でこそ「自分の価値観を人に押しつけない」がスタンダードになりつつあるが、そんなことがスタンダードになるずーっと前から父は母にひと言も咎め立てすることなく、「わかった」と受け入れている。

∽∽∽

さらに遡ることわたしが小学6年生のある朝のできごとだ。

冬の冷え込みがきつい日だった。
朝食を終え、身支度をすませ、あとはもうランドセルを背負って登校するだけなのだが、どうにもこうにも学校に行きたくない。
したがってストーブの前でまーるくうずくまっていた。

「早く学校に行きなさい!」と母に怒鳴られ、ぼそっと「行きたくない」とつぶやいてみるも即座に「はあ?ふざけたこと言うんじゃない!」と猛烈なピッチャー返しを食らう。
ああいうときの母の地獄耳には感動すらおぼえる。

ストーブの前でうずくまったまま、憂鬱な腹の底から「行きたくない日だってあるんだよ!人間なんだから!」と、謎の相田みつを節で反抗する。

母がズル休みをぜったいに許さないこともわかっていたが、よほど学校に行きたくなかったのだろう。もはやわたしは半べそをかいていた気がする。

「そうだよな、人間だもんな。行きたくないこともあるよな笑笑笑」

一連の話を聞いていた父がそういって爆笑していた。

お父さん、そうなのよ。
今日は行きたくないのよ学校。
だって人間だもの。

でも、怒られるどころか想定外に笑い飛ばされてしまったことで、なぜだか自分でもおかしくなってきた。
なんだかどうでもよくなって、わたしはいとも簡単に登校した。

「そうだよな、人間だもんな」がたぶん父の芯だ。
人は変えられないことも、家族とはいえ人それぞれ違うあたり前で生きていることも、芯から理解している。

わたしに諦めろと言った父に対して「娘が困っているのになんて無理解な父親だ」と憤っていたが、今風にいえばそれは「多様性を受け入れること」の真髄とさえ思う。

父が怒るときというのは、たとえ小学生であろうが自分のおこないに対して自分で責任がとれなかったときであり、約束を破ったときであり、ぐうの音も出ない正論で一刀両断にされる。

しかしそれ以外で父が怒ることはない。
だからこそ、もしかしたら父はその人の良さから逆に苦労して「難しい時期」に陥ってしまったのかもしれない。

お父さん、たぶん今やっとお父さんに時代が追いついてきたと思うよ。
もっといろんなこと教えてほしい。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたがお父さんから教わったことはなんですか?

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