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若き日の思い出(その4)ー子供を教育するということ

娘達は、”three sisters” 「(姓)sisters」などと呼ばれていた。それは同じ先生が、2年おきに3姉妹を教えるから先生達の間ではよく知られていたからだろう。

長女は2人のロールモデルだった。3人ともほとんど同じような課程を選択した。学校のconference 面談でよく、先生から「おたくの娘さん達は本当によくできた子ですね。どうやったらあんなにいい子に育てられるのですか。是非教えて欲しい🤪」なんて言われた。

そうなのだ。先生にそう言わせるくらい、とにかく外面がいい。まんまと先生を丸め込んだに違いない。みんな変に醒めた目を持っていて、皮肉っぽく、批判的に物事を見るセンスを持っていた。

幼い頃から「クレヨンしんちゃん」とか「8時だよ、全員集合」だとか「モンティパイソン」「Mr.Been」「South Park」などのブラックジョークばかり見ていたからだ、きっと。もちろんSesame Streetも大好きだったけど。

それに、彼女達はFinancial Aidは、grade成績とbehavior 生活態度で判定されることもわかっていた。「うちは学校中で1番貧乏だね」と言わしめるほど、自分の置かれた状況も十分理解していた。だから反動で、家での態度はすごかった🤭。年も近かったから喧嘩も凄まじかった😱。

さて我が家の家訓を覚えているだろうか。「若き日の思い出」(その1)で述べたように「家事は、母親の仕事ではない」は、日本に帰って早速実行に移された。

まず、子供でもできそうなことを3つ挙げローテーションにした。「家の掃除機かけ」「洗濯物干しと取り込み」「テーブルのセッティングと片付け」これを毎朝学校に行く前にする。

冬場の洗濯物干しは、さぞ冷たかったろう。だから娘達はどうしたら効率よく干せるかを考え出し、「小物、大物」などと言って仕分けをしながら洗濯機から取り出していた。

夫が、今自分が洗濯物を干す役になり、当時の娘たちを懐かしそうに思い出しては、「冬の洗濯物干しは辛かったろうに」と口にする。

三女がこの家事のことを柔道教室で日本人の母親達に漏らしたらしく、驚きの表情で見られてしまった。恐らく「鬼母」と思われたのだろう😅

日本の母親は、息子に甘いから。この甘さが日本の男をダメにしている、と思う。帰国した時、日本の母親達は、どうして息子達を偉そうに振る舞わせているんだろう、息子達は母親に何であんな無礼な態度をとるんだろうと感じたものだ。ひどい子は口もきかないとか。

マレーシアのレストランで、息子が母親に椅子を引いてあげている光景を見ていいなあと感激したものだから。

お風呂は最後になるのが嫌なのでみんな先を争って入る。最後の人が風呂を洗わないといけないから。でも大体、夫が最後に入って洗っていた。だから「いつも気持ちよくお風呂に入れるのは、お父さんがきれいにしてくれるからよ」(家訓の1つ)と言ってきた

それと私が最も重要視したことは、家の中では正しい日本語を使うこと。「ら抜き言葉」は使わないこと。英語と日本語をチャンポンにして使わないこと(当時、学校の日本人生徒が話すそのような言葉は、ASIJ語と呼ばれていた)

長女などは、完全に日本語だけを話そうとしてピンクやオレンジまで、桃色、橙色と言っていた。義母が「ずいぶん古風な日本語を話すのね」などと言っていた😆

授業料は高かったけど、塾にも予備校にも習い事にも一切お金を使わなかった。スポーツは3季制で、クロスカントリーとか陸上をやっていた。冬は水泳。卒業するまで、みんなきっちり泳いだ。

Swim Teamのコーチは、3人のPE(Physical Exercise ) 体育の先生で、10数年のつきあいとなった。高校生になると、彼女をサポートして、小学生のswimmerを教えた。

娘達もそうだったように、教えてくれる高校生のお兄さんやお姉さんには憧れと尊敬の念があったらしく、いつか自分もと思っていたのだろう。こういう学年の垣根を越えた交流はいいなあと思う。

ASIJのSwim Teamは、週末近隣の学校やスイミングスクールを招待してSwim Meetを開催していた。その時は夫と共に、タイマーをやりながら観戦した。

最大のイベントはリレーで、Kから12年生までの混成チームを作って、Kから順に上の学年にバトンを渡していく。12年生のアンカーにはみんな大興奮❣️冬場は日本の高校はプールがないから、彼らは喜んで参加していたようだ。

必須科目の他に選択科目がある。美術とかコーラスとか吹奏楽などがあるが、3人とも吹奏楽を選んだ。長女はトランペット、二女はクラリネット、三女はトロンボーン。

授業自体が1つのバンドと言うかオーケストラを編成していて、それぞれ”Rookie Band”(中学生)とか”JazzBand””Wind Orchestra “(高校では学年をまたいだ編成になっていた)などと名前がつけられていて、定期的に夜、コンサートが開かれた。

その時は指揮者の先生も生徒もブラックスーツ(学校備え付け)で正装する。ミュージカルの上演には、ピットで演奏もする。クリスマスコンサート🧑‍🎄ではみんなサンタの帽子をかぶった。

日本の学校の吹奏楽団のようにビシッと決まった演奏ではなかったかもしれないけど、授業の成果を発表するいい機会だったと思う。その年卒業する生徒には、指揮者の先生が指名して立たせて、ソロのパートを演奏させるという粋な計らいをしてくれる👏👏。

シアターの入口では、いつもボランティアのお母さんが、コーヒーとか手作りの焼き菓子を売っていた。仕事がどんなに忙しくても夫は必ず駆けつけてきていた。

この授業が素敵なのは、年に一度”Honor Band”と言って、世界中(と言ってもヨーロッパ、アジア、アメリカぐらいかな)の参加校からオーディションで楽器ごとに演奏者を選び、一夜限りのオーケストラを結成して行うコンサートに参加できるチャンスがあることだ。

3人娘も先生と一緒にデモテープを作って応募した。開催地はほとんどヨーロッパだった。3人ともほぼ毎年、オランダとかオーストリアとかドイツなどに大好きな先生の引率で参加した。

その音楽の先生は、うちが貧乏なことを知ってのことだと思うが、参加費用支援プログラムへの申請書を必ず娘に手渡してくれた🙇‍♀️🙇‍♀️🙇‍♀️

「美貌より知性」(家訓の1つ) 学校は制服はなく、極めて自由。短パンにTシャツなどは定番だったが、noodle strap(細い肩紐)のタンクトップだけはご法度だったようだ。

化粧もピアスもOK(私の職場の学校とつい比べてしまう。リボンやゴムは、黒、茶、紺。生活指導の先生が血眼になって違反者を探している。大変なエネルギーだ❣️)

娘達と言えば、ジーパンにTシャツ姿しか思い浮かばない。長女などは夜遊びもせず、家と学校の往復だった。彼女いわく、勉強はもちろんだけどやることが沢山あってそんな暇はないと。

(卒業後、reunion 同窓会で集まった時に、男の子に言われたそうだ。君のあだ名は「ハコ」だったんだよって‼️「箱入り娘」ということ。「誘いたかったんだけど、ね」って。「早く言ってよ」と悔しがっていた。)

二女、三女は結構遊んでいたので、長女は大いに不満だったようだ。初めての子には、つい厳しくしがちで。ごめんね(でも、長女も人の親になって「上の子にはもっと優しくしてあげれば良かった」と言っていたから、私の気持ちわかってくれたかな)


長女はアメリカの大学に行くことを決めた。counselor( 進路指導他の相談にのる先生)と相談し、我が家の経済的事情に見合った大学を探した。

アメリカの小さなLiberal Arts系の私立大学はダイバーシティのある方が高い評価(金持ちの白人だけの大学というレッテルを張られるのを好まなかった)を受けるので、世界中から学生をリクルートすることをめざしていた。だからそういう大学はInternational student への特典をいろいろ設けていた。

ほとんどが寄宿制で、Tuition & Boarding授業料と寄宿費用の半額を支援するFinancial Aid(Half tuition)はどの大学にもあった。5〜6校に出願し、1番条件の良いところを選んだ。その前に11年生の終わりに、長い休みを使ってキャンパス巡りをする。

出来るだけたくさん見たいので6〜7校にアポイントメントを取る。どの大学も最寄りの飛行場から車で1〜2時間の田舎町にあった。ここなら本当に勉強しかやることがなさそうだ。

歴史を感じさせる美しいキャンパス、緑豊富なグラウンド、最新の設備を備えた実験室等、生活のすべてが大学の中で済ませられるようになっていた。映画の劇場があるところもあった。

どの大学もほとんど同じで、後で写真を見返しても区別がつかなかった。長女は中西部にある大学を選んだ。二女も三女も同じようにしてLiberal Arts の大学を選び卒業した。三女の卒業式には、例の音楽の先生が隣の州から車を駆ってかけつけてくれた😭😭😭

長女はその後大学院に進んだ。Ph.d.Program というコースで博士課程まで進み博士論文を書き博士号を取得した。この間我々から一切の費用負担はなかった。このプログラム自体がそのように組まれていたようだ。

詳しいことは分からないが、学生を教えたり、教授の補助をしたり、研究費の支援が受けられたり。アメリカにはそういうサポートのあるプログラムがあるようだ。Equal opportunity 機会平等の国だから。彼女の博士論文には、”To my parents, sisters and husband”の献辞が載っていた。現在はボストンの製薬会社で働いている。

二女はその後、長女と同じ大学院でPublic Health公衆衛生学を学び修士号を取得し、現在はシカゴでCRA(Critical Research Associates)として薬品の治験データに関わる仕事をしている。

三女は、もう一度学び直し看護師免許を取得し、シカゴの病院で救急医療に携わっている。将来は大学院で学びたいという希望があるようだが、現在は仕事で手一杯だとか。アメリカの救急救命室はかなりハードだそうだ。

3人とも「経済的に自立」(家訓の1つ)を果たした。現在、長女は4人の子供、二女は3人の子供を育てながら、管理職としてフルタイムで働いている。女性の地位が低い日本にいたらかなわないことだったと思う。

それに、3人とも日本で騒がれている夫婦別姓である。こんなことなど、あちらでは問題にもならないようだ。とかく内向きな日本の常識は、世界の非常識かも知れないことを心に留めた方がいい。

日本の戸籍の形態は旧態依然であることも海外を知らないと気づけない。マレーシア生まれなので、そこで出してもらったBirth Certificate出生証明の方が手続きをするのに何かと便利だそうだ。

夫婦平等なのに、外国人と結婚している場合は、彼女達が世帯主になり夫はオマケのように下段に記載されている。「外国人のことは関知しない」と言う差別的な日本国の思想がその様式に現れている。

こんな生き方をしている3人娘。我が娘ながら尊敬してしまいます(親バカ)😅😅

さて、娘達は楽しくも厳しい学校生活を送ったようだが、私はと言えば辛い日々だった。一般的に日本の学校の人々は閉ざされた空間で生きている。特に私立学校の教員は異動もなく、ずっと一ヶ所にとどまっている訳だから、村社会にいるようなものかもしれない。

「わきまえない女」の私は、その中で居心地の悪さを感じていた。

(日本の教員と違って、アメリカンスクールの教員は、前職は弁護士だったとか、金融機関で働いていたとか、学校と世間を行ったり来たりしている点だ。また多くの教員は、世界中のインターナショナルスクールを回って教えてきている。いつも娘達の学校で感じるのは解放感!私の救いだった)

学校の事務職は、他の業種などのように個人の力量が顕著に現れるような働き方をする職種ではない。生産性を点数で評価するなどと言う考課法には無理がある。それを学校改革などと称して中途半端に導入しようとしていた。

娘の学費を稼ぐと言う目的がなかったらとっくにやめていただろう。だから虚しいだけの自分の生活を変えるために、何かしようと思い立った。

その頃、社会人目当てのRecurrent 教育とか生涯学習などが取り沙汰されていた。で、私もそれに乗っかって大学院で勉強してみようと思った。と言うのも大学時代本気で勉強したと言う実感もなく、卒論も書かず(単位を満たせばOK)、卒業式にも出席しないまま終わってしまっていたからだ。

その後、オーストラリアの大学院に子連れ留学を試みるも挫折。それら一連のことが心の中に悔いとなって残っていた。今度こそ最後までやり遂げる。

修士論文を書く、と言う決意のもと大学院に入った。私は、厳しいと言われていた外国人の先生を敢えて選んだ。事前に会って話もした。日本語は議論する程度には話せたけど漢字は読めないとのこと。だから英語で論文を書くことに。

先生はやはり厳しかった。ゼミの議論ではギリギリ追い詰められた。気胸になる学生も出るぐらいつらかった。でも社会人は世間で生きてきた経験があるからとそれを評価してくれて、学生よりは甘く見てもらえた。

もうヨレヨレになりながら修士論文を書き上げ提出し、一応パスしたが、なんだかその出来には満足ができなかった。でも卒業式にも出て夫も出席してくれて、今までの心残りにとりあえず終止符が打てた。その後しばらく本を見るのも嫌だった。

先生とは、3人娘と夫とで何度か食事をしたり、おしゃべりをしたりした。その時、言われたことが今思い出しても身が引き締まる思いだ。

「3人の娘さん達はしっかりした自分の考えを持っていて、それが主張できる。でも、『聞く』と言うマナーがまだできていない。コミュニケーションとは、まず人の話を聞くことから始まる」深い言葉だ。

これは、娘どころか私にもできていない。人の話を聞くと言うことは、今読んでいるエンパシーのことともつながるかもしれない。エンパシーとは、他者の経験や感情を理解する能力のことだそうだ。他者の話に耳を傾けなければ、その人を理解できないだろうから。聞くことは大切だ。

エンパシーにはうまい日本語がないという。共感という言葉があるが、これは自分と同じ感情や考えを持つ人への思いのことで、sympathy の英語に相当する。エンパシーは、たとえ嫌いな相手であっても、その人の感情を理解する能力と言うことだ。「他者の靴を履く」(ブレイディみかこ著書) 

教養という言葉があるが、教養とは単に蓄積された知識ではなく、身体の動きに表れるものだそうだ。教養は、体の一部となって使いこなしてこそ意味のあるものになるのだろう。

三女が大学を卒業した時、仕事を辞めた。その頃、夫が国際援助関連のNPOに転職したこともあって、海外に赴任するようになった。津波被害の大きかったアチェ(インドネシア)での住宅建設、モザンビークでの学校建設、ミャンマーでの学校建設等々。

私だって行きたい。と言うことで夫の任地を訪ね歩く日々。アチェでは、甚大な津波被害を見て回った。

モザンビークには、行くにあたり、スキューバダイビングの免許を取った。ダイビングの名所がいっぱいあった。そして現地では、公用語のポルトガル語を勉強した。ポルトガルの植民地だったため、ポルトガル料理は絶品だった。

ミャンマーは、アウンサンスーチーが活躍し始めた頃で、活気に満ち溢れていた。日本語を教える機会もあった。3回も訪問した。今のミャンマーを見ると胸が痛む。

以上(1)〜(4)が、私と我が家のFamily Historyです。今の時期、感染症の引き起こした社会不安で心が晴れないばかりか、今後もこんな状況は続いて行くだろうとの予測に落胆している。だから今まで韓流ドラマと視聴感想文のお陰で、何かに没頭して過ごすことができたことは、幸せでした。これから書くことがあるのかしらと思うほど、頭が空っぽです。👏👏👏








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