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「世間」という名の見えない圧力ー世間の目、気になりますか?

昔、オーストラリアでテレビを見ていた時、コマーシャルで、

「ちょっとお隣まで砂糖を借りに行って来るわね」

と言った後、車でビューンと走り去るというシーンがあった。家族で見ていてゲラゲラ笑った記憶がある。「お隣」の距離ってどんだけなんだと。

日本の「お隣」とはその距離感が全く違う。こんなスペイシーな空間で生きていたら人との距離感も日本人とは違うのだろうなとその時思った。物理的な距離感と同じように、心理的な距離感も日本人ほど緊密ではないのではないか、と。

日本人なら、「向こう三軒両隣」などと言って、ご近所とのお付き合いを密にして、その目を気にしながら暮らしているだろう。

子供の学校に行けばママ友との関係をうまく調整したり、会社では「空気を読まない人」にならぬよう他人が自分をどう見るかということに気を遣っている。

大学では、学生が一人で食事をしていると「友達のいない寂しいヤツ」と思われるのが嫌で、トイレで食事をするなどという話まで聞いた。

ここで思い出されるのは、国籍をアメリカに変えたノーベル賞受賞者の真鍋博士の言葉である。

「アメリカでは自分のしたいようにできます。他人がどう感じるかも気にする必要がありません。実を言うと、他人を傷つけたくありませんが、同時に他人を観察したくもありません。何を考えているか解明したくもありません」

これぞ「世間の目」と言うものだろう。真鍋博士はこの「世間」が息苦しかったに違いない。世間とは、

「はっきりと定義づけられないが、実態として厳然と人間関係や共同体に存在し、我々を支配する空気のようなもの」


この世間には、夏目漱石も苦労していたようだ。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい

日本で「社会」という時、それはほとんどこの世間のことであるという。

誰もがこの世間を意識しながら生きている。世間から相手にされなくなるのを恐れ、排除されないように言動に気をつけている。会社でも学校でも組織や団体、労働組合、そして政治家たちでさえも例外なく。

忖度、同調圧力、気遣い、しがらみ、わきまえるなどは、この世間から派生した言葉だろう。

一方、「社会」という概念は、明治期に西欧から輸入されたものである。西欧でいう社会とは、個人が前提となって作られるものであり、その個人は譲り渡すことのできない尊厳を持っている。その個人の意思に基づいて社会のあり方が決まるというものである。その名も市民社会!


しかし、日本ではいまだにこの個人の尊厳が人々の意識に醸成されておらず、近代以前からあった世間が幅を利かせ、個人が世間を超えられずにいる。

「世間に負けた」は象徴的な言葉である。

阿部謹也氏は、その著書「世間とは何か」で、日本の構造を以下のように論じている。

「日本での正しさの基準は、結局のところ神でも科学でも法でもなく、世間の風向きである」
(2022年8月26日朝日新聞「世間に人権思想はあるか」神里達博氏の記事から)

だから世間は危うい。世間の風向き一つで正義の基準が変わってしまうのだから。さらに世間は個人の尊厳に基づいていないことで、おうおうにして、人権や自由や正義に対する意識が希薄であり、ないがしろにもされる。


そんな時その理不尽な世間の仕打ちに我慢できるのか?我々はそんな世間に立ち向かえるか?そんな覚悟はあるのか。世間に排除されても、その孤立や孤独を引き受ける覚悟はあるか???

と、自分に問うてみる!



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