見出し画像

【短編小説】『ガーデニング』(6)

それから五日ほどして、私の腰イタは影を潜めるようになった。私はやっとのことで自由の身になれたが、有給の最終日まであと二日しかなく、早く結論を出さないといけないことに焦った。辞めることを上司に告白する様子を想像すると、サリの顔が浮かんで、無性に申し訳なくなった。しかし、ここで言わなければ、ずっと言えずじまいだと思った。言おう。私の人生。すぐに疑問が湧いた。私は本当にハーブ園など作れるのか。作れなかったら作れなかったでいい。とりあえず会社で働くということを早く止めなければ。でもガーデンを作ってしまえばこれから一人で一生を過ごすことになるぞ。ああ。家を売り払って、どこか人がわんさかいる都市部にでも移り住もうか。そうすれば今に家にいるハーブたちはどうなるのだ。私はもう何も考えたくなくなった。パートナー、誰でも良いし作っとけばよかった。縫田の顔が浮かんだ。あいつ裏切りおったな。ああ、どうでもいい。私は『星に願いを』を鼻で奏でた。私はいつも気が狂いそうになった時、これを鼻で唄って、心を落ち着かせた。「フフフフフフフフh…ン」突如として涙が溢れてきた。ああもっと世の中には深刻な悩みで我慢してそれでも仕方なく泣いている人だっているのに。私の悩みなど悩みと言えないのに。自分に、悲しみに、酔っているだけだ。「恥を知れ。」そう自分が実際に発した声のボリュームにビクッと体が反応した。


二日が経った。私はまだ何も覚悟ができていなかった。それでも会社へは出勤することにした。出勤して、私はあることに気がついた。旅行のお土産を持ってきていない。私の会社は旅行へ行った人はほぼ百パーセントお土産を持参した。ちょっと日帰りの旅行へ行った人でさえもちゃんとお土産を持ってきていた。古い会社であるからこういった慣習はまるで法ででもあるかのように厳格な暗黙のルールであった。私は日帰りどころか、二週間も休暇をとっていたのに、お土産のことなどついぞ頭になかった。私の復帰に久しぶりと言って迎えてくれる人たちにどことなく漂う変な雰囲気はこれだったのか。申し訳ないとは思ったが、みんな優しそうな顔をしながら、実は内心物への執着を持っていると思うと、なんだか嫌な気分がした。ああ、やっぱり私は組織には合わないなと思った。則松常務は私の正面の席に座っていて、「どこ行ってきたん?」とすぐに聞いてきた。私は大きな家でひとりぎっくり腰で悶え苦しむ自分の姿が頭に浮かんだが、慌てて「長瀞です。」と言った。私にとって休暇を過ごす場所というのは長瀞のイメージがあった。「長瀞かあ。ええな。何が良かった?」私はやってしまったと思った。長瀞にはまだ一度も足を踏み入れたことがなく、ただ地名を知っているだけだった。どうせなら、行ったことのあるところを言えば良かった。

「そうですね、やっぱり川の、あの、下る、船で」

唯一川下りのようなものがあるとは知っていてそれを言おうとしたが、しどろもどろになってしまった。

「ああ〜川下りね。気持ちよさそうやね。だいぶ遠かったんちゃう?新幹線で行ったん?」

長瀞、どこやっけ。ああ、なんで長瀞なんか言ったんや。私は一か八かに出た。

「いえ、飛行機で」

「飛行機?!あ、東京まで飛行機で行ったんか。」

素直に新幹線だと言っておけば良かったと思った。せっかくアシストを出してくれてたのに。

「まあそうですね。ちょっと新幹線が怖くって。」

私はそんなことを言うと、

「普通逆やろ。新幹線が怖いて。相変わらず変わってんな〜」と則松常務は笑いながら、特に私の嘘に気づいている様子もなく、例のお土産はないのかの空気をその場に残して、向こうへ行ってしまった。私は話している最中、辞めることを言わなければと何度も急き立てられたが、結局嘘の弁解に必死で言うことができなかった。いや、嘘の弁解がなくても私は言えていなかっただろう。ああ、このままナアナアでいってしまうのだろうか。すると、隣から、クスクス笑い声がした。私を誰かが笑っている。その正体は天使なのか精霊なのか、わからないけれど、私だってこんな浅ましい人間を外から見ている側だったら笑うだろう。ため息をつきながら隣を見ると、サリだった。

「あれ、いつの間に来てた?」

「いまさっき。ユキ、嘘つきまくりじゃん。」

私は一瞬仕事を辞めることについてサリに嘘をついているのがバレたと思い、ビクッとしたが、そんなことじゃない則松常務のことだと気がつき、安堵した。

「ぎっくり腰で休んだなんて言えへんわ。」

「良いじゃん。れっきとした理由だって。嘘つきまくりで聞いてて笑い転げそうだった。」

ああ、そんなサリにも私は嘘をついている。私は芯から腐っている。三年でもしたら本当に詐欺でも働くのではないか。

結局私は誰にも言えずじまいで、普通に働いて普通に帰った。家には直帰せず、仕事場から河原町までをぶらぶら歩いた。夜の錦市場は全ての店のシャッターが下ろされていて、人気はなく、悲しみに酔うには最適だった。ああ、私はいつまでこうして…私はナアナア人間の極まるところだ。前から人が歩いてきて、私の姿をじろっと見ている気がした。そんなに人のこと見て何が楽しいねん。私に構うなかれ。思わず出た古臭い言い回しに自分でも驚いた。私が一番嫌いな人間といえば、人間観察が趣味ですと言う人間だった。観察された側は飛んだ迷惑であるのを知っていてやっているのだろうか。そんなことを言う人間は、他を顧みることができず、人を観察するという特異な趣味を持った自分に自惚れている人間としか思えなかった。観察するということ自体、人を下に見ている表れである。その癖自分が逆に同じことをされたら怒るくせに。私はいつも人に見られていたとき、その人に飛びかかっていきそうな勢いでキレた。物に当たることもあった。私がキレると言ったら、それぐらいしかないくらい、人の行動を逐一行動する人間は刑が課されてもいいと思っていた。しかし私はある日、人が私をずっと見ていると言うことに気づくくらい私もその人を見ていたのだと気がつき、ショックを受けるとともに、私はそんな人間と同じであるのが嫌であったから、歩いている時、人を一切見ずに、地面を見たり、店構えを見たり、電車に乗っている時は別にスマホを見ていたいわけではなかったけれど、スマホから目を離さず、道で人が前から歩いてくるときには、その人の横の空いているスペースを見た。今だってそうだった。それでも、何というか、感覚的にそいつが私を見ているのがわかった。見てくんなや、とそいつにわざわざ言いに行ってやろうかと思った。しかし、意外なことに、なんとそいつかもしれない、いやそいつしかありえない人間が私の肩を叩いた。そいつの足音がふと止まり、こちらに舞い戻るのがはっきりとわかり、そいつであるという確信があった。やばい、ちょっとキレてたんが伝わったんかも。それかナンパか。気配的には男だった。私のように綺麗でも不細工でもない中途半端な女はどんなヘタレな男であっても声をかけやすいのかもしれない。落とし物は?していない。良いことではないという直感だけはあった。私はこの状況にデジャブを感じた。書店のときと同じだ。振り返ると、やっぱり縫田だった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?