解放のあとで 五通目 β

2020年7月5日
Yoshiokaさんへ

 とても興味深く読ませていただきました。コロナに対する多くの言説が、マクロな世界(政治や経済など)に集約してしまう中で、Yoshiokaさんが書いていたミクロ的な問題はとても示唆に富むものであると思います。ちょうど、僕も今メルキド出版さんの主催の批評誌『山羊の大学』に、完全に個人の主体的な問題としてのコロナ論を寄稿する予定でして、締め切り遅れで絶賛執筆中なのですが、そこで展開する予定の内容もYoshiokaさんの書簡とつながるのではないかと思います。「このような日々の感覚を「知」の面から見るとどう感じますか?それを幸村さんにはお尋ねしたいです。」との事でしたが、ここではYoshiokaさんの話との関連で、寄稿する予定の評論の内容に少し触れたいと思います。
 Yoshiokaさんは「自粛」や「ソーシャル・ディスタンス」「三密」などの言葉について「このような言葉を内面化し、カギ括弧なく自分の言葉=思考として使ってしまうことは、自らの判断、つまり意識と行動を、大きな力に任せてしまうことになる危うさを孕んでいると思います。」と書いていらっしゃいましたが、僕も全くその通りだと思います。日本におけるコロナ対策としてのいわゆる「不要不急の外出」を控える「自粛」と欧米における「ロックダウン」は当にこの「言葉の内面化」の作用において、決定的な違いがあると思います。つまり、「ロックダウン」においては純粋な権力の行使がなされており、国民や市民は主権者にとって客体として扱われ、一種の「生政治」が行われています。それに対して、日本における「自粛」は直接的な権力の作用は働いておらず、権力の言葉の内面化を通してその効力を発揮します。「ロックダウン」は「ロックダウン」なりの問題点がありますが、日本のコロナ問題を考えるにあたってはこの「言葉の内面化」は無視できない問題でしょう。そして、この「自粛」は単に自分がコロナに感染しないための「自己防衛」のためだけのものではありません。それは「社会責任」という観点から見るならば、「ウイルスの拡散を防ぐため」という役割があります。逆説的ですが、これを再度個人の問題に置き換えるならば「自分がコロナウイルスの媒介者にならない」という言い方ができるでしょう。コロナウイルスの厄介なところは無症状のまま菌を保持してしまう「無症状キャリア」の存在です。つまり、自分が発症しておらずとも、他人を感染させる恐れがあるのです。だからこそ、個人は一緒に暮らす家族や接触する友人などの命を守るために常に「自分は菌を持っているのではないか?」と無意識にでも疑わねばなりません。そして「自粛」はこの「自分は菌を持っているのではないか?」という自己反省に対してアリバイ作りを許すのです。このように考えて自分が思い題したのはフロイトの『夢判断』の中にヒステリーの症例として紹介される男の話です。この男はふとしたきっかけから自分には人殺しの傾向があると考え、自分が意識しないところで人を殺しているのではないかと不安になってしまいます。そして彼は引きこもり、さらに夢遊状態で人を殺さないように家政婦に自分の部屋の鍵をかけてもらい、出られないようにするのです。つまり、彼は「自分は人殺しなのではないか?」という自己反省によって不安に晒され、そのアリバイ作りとして、そして人を殺さないために「自粛」をするのです。この症例が前述したコロナ禍における「自粛」についての話と恐ろしく類似していることは明らかでしょう。つまり、「自粛」とはその「社会責任」と自己反省において、ヒステリーの端緒であると同時に結果なのです。『山羊の大学』に寄稿する評論ではこの点についてより発展させ、「自粛警察」や「俺コロナ」男などについて書いています。この書簡で全部内容を書いてしまうと評論が無駄になってしまうので、ここではこのぐらいに留めておきます。(もし興味がありましたら『山羊の大学』を読んでいください。ここで宣伝!?) 
他にもYoshiokaさんは「『コロナが収まったら〇〇したい』という声が日々メディアで聞かれますが、『収まる』こと自体を想定してしまっては、現在が息苦しくなってしまう気がします」という指摘をなさっていましたね。今、メディアではこのような「日常を取り戻す」という話と同時に「新しい生活様式」というような二つの相反するものが同時に称揚されているように感じます。しかし、実際「新しい生活様式」なるものは世間ではほとんど浸透しておらず、「緊急事態宣言」解除後は良くも悪くも緩やかに「元の日常」に移行しているように思います。「新しい生活様式」には演劇的な、というかショーのようなところがあって、メディアや政府、テレビ局などが建前として用いていますよね。つまり、僕が何を言いたいのかというと、世間の領域、つまり私的な領域と公的な領域における「生活様式」が乖離しているということです。この乖離は少なくとも「コロナ収束」までは続くでしょうし、その後も続くかもしれません。それが将来的にどのような影響を持つのかはわかりませんが、中々に興味深い点だと思っています。個人的には何度ウイルスによって「パンデミック」が起きようとも人間の生活は根本的には変わらないように思います。歴史的に見ても、人の集まる都市はウイルスによって何度も崩壊してきたにも関わらず、都市は何度も作られて人類は同じ事を繰り返しています。そもそも人が人と暮らすということは「パンデミック」のリスクの観点から見れば相当なリスクなわけで、それでも人間は何度も共に暮らしてきたのです。最近『欲望の資本主義2』というNHK主催のインタビュー集を読んだのですが、そこでダニエル・コウエンはコロナとは関係ない分脈で(というのもこの本は2018年発売なので)「我々はポスト物質主義の時代にいるのか」という問いに対して、我々が人と共に暮らすためにどれだけのお金を割いているのかという話をしていました。つまり、いくらインターネットなどが発達しようとも人々は都市に集約し、そこに住むために、また人々と身体的なつながりを持つためだけにお金を払っているのということです。確かに、我々は「コロナ禍」の前でもインターネットによって飲み会を開いたり、話し合いをしたりなどは技術的には可能だったのに、それが身体的なコミュニケーションに代替されることはありませんでした。そのような点を考慮すると、やはり人類はまた同じようにリスクを背負ってでも「元の日常」に移行していくように思います。しかし、やはりそこにはリスクが潜んでいるということには意識的になるべきでしょう。あまり関係ありませんが「コロナが収まったら〇〇したい」という言説にはどこか、キリスト教の失楽園から最後の審判へというような流れやマルクスの原始共産制から共産制へというものとどこか似ているような感じがしますね。その意味では我々は失楽園の状態にいるのかもしれませんが、Yoshiokaさんの言う通り今を生きるしかないようにも思います。
 と、結局コロナウイルスの話ばかりになってしまったので、最後に軽く僕自身の前書簡からの一ヶ月を書きたいと思います。僕もみなさん同様に「自粛」になってからはあまり読書が進みません。特にこの一ヶ月は、ついに「自粛」に限界がきたのか読書に集中できていない感じがします。「自粛」が始まってから二ヶ月後にはオンライン授業が始まり、週3程度アルバイトをして、大学の課題をこなしたりこなせなかったりする毎日です。さらに最近は朝に安酒を飲んで潰れてそのまま夕方まで眠るという壊滅的な生活リズムで、精神的にもおかしくなりそうです。ですが、その中でも少しは本を読んだので、紹介させていただきたいと思います。列挙すると、樋口恭介『すべて名もなき未来』、ジェイ・マキナニー『ブライトライツ、ビッグ・シティ』、村田沙耶香『生命式』、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』、ジョルジュ・ペレック『物の時代 小さなバイク』、あと漫画ですが秋山ジョージ『アシュラ』です。この中で個人的に紹介したいのは樋口恭介『すべて名もなき未来』です。この本には大変感銘を受けました。樋口恭介の本は処女作の『構造素子』も読んでおり、こちらの小説も大変興味深かったのですが、この評論集『すべて名もなき未来』も中々に熱い!本です。樋口恭介には『構造素子』から『すべて名もなき未来』、さらにはコンサルとしてのSFプロトタイピングにおけるまで通底したテーマというか、問題意識があります。それは「実現されなかった過去と実現され得ない未来の救済」と呼べるものでしょう。例えば『構造素子』では、主人公である「あなた」/エドガーの物語と、存在し得なかった兄の存在し得ない過去が重なり合うようになっており、さらに存在する現在=未来が存在しえない過去の登場によって塗り替えられ、存在し得ない現在=未来が書き出されるというような内容になっています。樋口さんが「SFプロトタイピング」についてお話しなさっているイベントも見たのですが、近く予測可能な単一の未来ではなく遠い予想不可能な未来について考えていくコンサルティングの話をなさっていました。ドゥルーズは、共同体の構成員であるマイノリティが、その共同体を変容させる可能性についての議論を展開していますが、樋口恭介においては、これが「複数としての未来」に置き換えられており、実現度の低いマイノリティ的な未来が予測可能で単一的なマジョリティ的未来へ波及する可能性を信じているように思います。『すべて名もなき未来』でも、このようなマイノリティ的未来の力への意志が随所に現れており、その純粋で徹底した姿勢に感銘を受けました。
かなり、文章が長くなってしまったので、このぐらいで切り上げて、次の↑Bさんに書簡を回したいと思います。↑Bさんにはコロナの話というよりはマイノリティ的未来を思考することの可能性や意義などについてどうお考えになるかお伺いしたいです。文章が長くなっていまい申し訳ありません。

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