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木崎喜代子の場合 Ⅸ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた。⑨】

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#9 (7回目)
 
 今日は、先生にお願いがあってきました。

 開口一番頭を下げた喜代子に、さすがの三野原も面食らったようだった。

 あれから検索サイトと向き合う日々が続いた。正太郎を助けるために出来ることは何なのか、日がな一日調べ続けた。そうしたある日、本当に認めたくはない文字を、彼女は検索欄に打ち込んだ。
『引きこもり』
 正太郎の今の状態を、そう呼ぶことは毒を飲むよりもつらかった。けれど、半年以上外に出られていない状態が『引きこもり』と定義されるならば、2年も仕事に行けず部屋からも出られない彼について、そう考えるしかなかった。
 図書館通いの日々の中、喜代子は幾度となく関連する本棚の前に立った。ついにそれを借りることも手に取ることも出来なかったのは、偏に怖かったからだ。正太郎を『引きこもり』と認めることも、その本を読む喜代子の姿をご近所の誰かに見られることも恐怖だった。
 明日には出てくるかもしれない。いつか悪い夢だったように、普通に仕事に行くようになるかもしれない。
 当てもない願いを抱きながら季節が巡り、喜代子は今日まで来てしまった。
 そして、ようやく向き合うことにした。インターネットは有り難い。誰にも知られることなく、喜代子の欲しい情報を集められた。とはいえ、『引きこもり』と打ち込めば瞬時に1500万件以上のサイトが表示され、そこから必要な情報を引き出すことにはかなり苦労した。半日かかって市の『引きこもり支援』のサイトに辿りつき、それをつぶさに読み込む日々がはじまった。
想像の何倍も苦しい作業だった。実際、最初の数ページで心が挫けそうになった。
『引きこもりは男性が多い』
『多くは20-30代』
『その背景には、社会的にプレッシャーが大きく、過剰な期待をかけられていることが考えられる』
『特に父親との関係性において、葛藤を抱えているケースが多い』
 思い当たることが多すぎて、涙が止まらなくなった。まさに正太郎のことだ。それと同時に強い自責感が喜代子を襲った。
 正太郎を苦しめているのは、私だ。あんなに守ってやらないといけないと思っていたのに、夫からあの子を守れなかった。
 その現実を突きつけられ、喜代子は身を屈めて泣き続けた。腰は恐ろしいほど痛んだ。けれど、頭の一方で叱咤激励する自分がいた。
 正太郎の苦しみは、きっとこんなものじゃない。
 今は、正太郎のために出来ることを探さなくては。そうやって、次の診察日までを過ごしてきたのだ。

 喜代子がまず切り出したのは、正太郎のことだった。
「25になる息子がいます。ずっと先生にお話し出来ていませんでしたが、息子は2年、家に閉じこもっています。就職した夏ぐらいからずいぶん残業も多くなり、会社から帰ってこない日もありました。そのうち『頭が痛い』と会社を休むようになって、朝から起きられなくなりました」

 大きな病院でCTもMRIも撮った。そのどれも異常はなく、「仕事でパソコンを使いすぎたか、ストレスが原因でしょう」と診断された。それでも何とか堪えながら、冬が来るくらいまで息子は出勤していたのだと思う。

「ひどいめまいを起こして、仕事から帰ってきました。その日から仕事に行くことが出来なくなりました」

 出勤しようとすると、正太郎はめまいで立てなくなった。実際にトイレに蹲って吐く日もあった彼を、喜代子は懸命に介護した。立てない日が3日を超え、近所の病院で検査入院をした。再度行った頭の検査も胃カメラでも「大きな異常はありません」と言われ、確かに症状もおさまったので家に帰った。退院間際、若い担当医は喜代子に尋ねた。
「ご家族から見て、お疲れの様子ではなかったですか?」
 担当医の言葉に、喜代子は胸を突かれた。喜代子自身、それが一番不安だった。
 まだここまで症状がひどく前。日付が変わった頃、青白い顔で帰宅する正太郎を迎え入れながら、果たしてこれが普通の会社員の業務量なのか、こうして働かねば成り立たないのか判断に苦しんだ。
「頑張りすぎなんじゃないの」
 昼から何も食べられなかったという息子に雑炊を用意しながら、恐る恐る喜代子は切り出した。盆に乗った食事を前に、正太郎は鼻で嗤った。
「ちゃんと働いたことのない母さんには、わからないよ」
 そう言われてしまえば、返す言葉がなかった。喜代子が働いたのは30年近く前。それも結婚退職を前提とした仕事だ。正太郎の任されている業務とはきっと雲泥の差があるのだろう。
「わかったつもりで言うなよ」
 ものの数分で椀を空にした後、消え入りそうな声で「御馳走さま」と言って席を立つ。それはいつだったか、夫の電話を受けた背中を思い起こさせた。

「結局、退院した後もあの子は会社に行けませんでした。行こうとしましたが、通勤途中で倒れてしまって」

 差し当たって内科で「自律神経失調症」と診断された。会社は「しっかり休んで治せばいい」と休職を勧めた。けれど、家で休んでいる間は不思議と症状は出なかった。
「調べて何もないなら、仕事に行けるだろう」
 正月休みに帰ってきた夫は、そう断じた。正太郎は部屋から出て来ない。久々に頭が痛いのだと言う。
「いつまで学生気分なんだ」
 とはいえ、夫もそれ以上正太郎に声を掛ける様子もなかった。そのことに喜代子は不満を覚える一方、何処かほっとしたのも確かだった。今、正太郎をこれ以上追いつめて欲しくなかった。だから、つい庇う台詞が口をついた。
「あの子も、遅くまで忙しそうだったから」
「……それは、当たり前だ。だから、家事を任せるんだろう」
 夫の声があからさまに冷えたのがわかった。
「君がそれを放棄した。そして、彼奴を甘やかした。その結果がこれだ」
 斟酌なく夫はそう言い捨て、「よく考えるように」と喜代子に告げた。

「私が間違ったんだと思います。きっと今も何か間違えています。私のせいで、息子は苦しんでいるんです。でも、どうすればいいか、私にはわかりません。だから先生に、どうすればいいのか教えていただきたくて来ました」

 まっすぐに三野原を見つめたまま、喜代子はそう言い切った。少し間があった後、三野原はこう返してきた。

「それが今、木崎さんが一番気になることなんですね」
 強く頷いた彼女に、三野原は続けた。
「まず、木崎さんが実際に『間違えた』かどうか。これは僕にもわかりません。でも、木崎さんが何かを『間違えた』と感じていて、そのことで息子さんの体調に影響していると考えているんですね」
「そうです」
「息子さんがそう言った?」
「……いいえ」
「息子さん、今どちらか病院には通院していますか?」
「いえ、ここ1年以上はかかっていないと思います」
「家の中で、一緒に過ごすことはありますか?」
「いえ、ほとんど2階から下りてきません。トイレも別にあるので」
「外出もしない?」
「私の留守中や寝ているときに出かけているかもしれませんが、わかりません」
「ということは、会話もない?」
「……私が出かけるとき、声はかけています。返事はありませんけど」
「息子さんと話せそうですか?」
「……難しいと思います」
「……どうしてですか?」
「今までも、何度も話をしようとしましたけれど、怒ったり黙ったりで、話になりませんでした」
「ちなみに、その時は何の話をしましたか?」
「え、『どうして出て来ないの』とか、『何で仕事に行けないの』とかです」
「……なるほど」
 少し天を仰いだ後、彼は喜代子に向き直った。
「『間違えた』かどうかは微妙なところですが……おそらく、木崎さんが誤解していることがひとつあります」
「はい」
「『どうして出て来られないか』、『何故仕事に行けないか』、息子さんには答えられないと思いますよ。多分、息子さんにもわからないから」
「わ……わからないんですか?」
 さも当然のように言い切った三野原に、裏返った声で彼女は尋ねた。
「そう、だから話せないし、それを聞かれても息子さんは困るんだと思います」
「え、わからないのに、出て来ないんですか?」
「『わからない』から、『出て来られない』んです」
 穏やかに訂正した三野原は、ひとつ宿題を出しましょう、と言った。
「息子さんも『何故出られないかわからない』としたら、どう声を掛けてあげたいですか?」
「…………先生、メモするのでもう一度お願いします」
 手帳を開く喜代子に、三野原は少し微笑んだようだった。

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