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木崎喜代子の場合 Ⅹ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた。⑩】

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#10 (8回目)

 『もし出られない理由が、息子さんにもわからないのだとしたら、木崎さんはどんな言葉をかけますか?』

 まるで謎かけのような宿題を前に、喜代子は戸惑うしかなかった。
 閉じこもる以上は、何か理由があると思っていた。今でも頭痛がするのか、めまいがするのか、それとも仕事に行くのがつらかったのか。そうでなければ、いつまでも部屋に留まったりするだろうか。「甘えている」と夫は断じたが、きっとそれ以外の理由があるのだと喜代子は信じていた。
 けれど、三野原は「息子さんにも、理由はわからない」と言った。
 本当にそうだろうか。訝しく思いはしても、それを否定する材料も貴代子にはない。「聞いてみたらどうですか?」と彼は気軽に言ったが、それをきっかけに正太郎が暴れ出しでもしたら、それこそ目も当てられない。
「話すのが難しいなら、『手紙』はどうでしょう」
 三野原の提案は、食事にメモをつけるというものだった。
「いきなり、『出て来る/出てこない』という話をされたら、息子さんも気分は良くないと思います。どんな話題だったら、揉めなさそうですか?」
「……わかりません」
 恥ずかしながら、まったく思いつかない。洗濯物ひとつ勝手に触っても怒鳴り散らされたこともある。正直なところ、何を言い出すのも怖い。
「たとえば……昼ご飯、用意されてるんですよね」

 帰り道に、大きめの付箋を買った。正太郎は犬が好きだ。夫は煩いからと飼うことを許さなかったけれど、息子は柴犬を見るといつも笑顔になった。だから、柴犬の描かれた付箋にしてみた。

『お昼ごはん、食べたいものはありますか? あれば、書いて冷蔵庫に貼ってください』

 たったこれだけを書くだけでも、文字が震えた。ようやく3枚目で満足するものが書けて、ラップをかけた昼食にそっと貼った。
 返事は来るだろうか。
 祈るような気持ちで、喜代子は冷蔵庫に皿を閉じ込めた。

 その日、付箋は冷蔵庫に貼られてはいなかった。返事がないことくらいわかっていたはずなのに、その事実に打ちのめされそうになる。幸い、食べ終わった皿は流しに戻っていた。くしゃくしゃに丸めたラップもその皿の上に乗ったままだ。溜め息をついていつも通りに片付けようとして、ふとラップを広げた。
 付箋はついていなかった。

 それから、喜代子は毎日付箋を貼り続けた。内容はあって、ないようなことだ。
『冷蔵庫の中に、新発売のジュースを入れました』
『リンゴを剥いて、入れてあります』
『冷凍庫に、アイスを冷やしています』
『頂きもののマドレーヌがあります』
 付箋はラップにそのままのこともあったし、返ってこないこともあった。それでも貼り続けたのは、リンゴがなくなっていたり、マドレーヌがなくなっていたり、何らかのリアクションが返ってきたからだ。
 それが貴代子には想像以上に嬉しかった。ちゃんと正太郎は読んでいるのだと、思うだけで今日は何を用意しようかと心が浮き立った。
 だから、少しだけ欲が出たのだ。

『久しぶりに、顔を見て話がしたいです』

 付箋をつけ始めて3週間後、そう書いて貼り付けたメモは、そのまま返ってきた。そこから付箋は必ず戻ってくるようになり、貴代子が準備した菓子どころか、昼食も手つかずのままになってしまった。
 眼前、ほんの少し開いたと思った扉をまた正太郎は閉ざしてしまった。いや、閉ざした原因は喜代子自身だという自覚があった。
 腰がひどく痛い。
 また、自分は間違えてしまったようだった。

「なるほど、頑張りましたね」
 顔もあげられない気持ちで診察に赴いた貴代子に、三野原は明るく声をかけてきた。自分の気持ちとはかけ離れたトーンの返答に、思った以上に苛つきを感じた。
「……せっかくのチャンスを、私が潰しました」
「そう感じているんですね」
「『感じている』んじゃありません、実際そうです」
 苛つきながら、三野原に怒っても仕方がないこともわかっていた。悪いのは、喜代子自身なのだから。
「もう息子は返事してくれないと思います……」
 涙が出てきた。また自分が間違えたせいで、腰は痛み、正太郎は閉じこもったまま、何ひとつ前には進めていない。何のために病院にかかっているのかもよくわからなくなってきた。
「木崎さんは、息子さんに『顔を見て、話がしたい』と書いたんですね」
 ハンカチで目元を拭う喜代子に、三野原は確認した。頷く彼女に、質問を続ける。
「息子さんと、何を話したかったんですか?」
「……前に、先生とお話ししたことです」
「どの話ですか?」
「『出られない理由が、本当にわからないの?』って、確認しようかと……」
「えぇと……木崎さん」
 やや言い淀みながら、三野原は更に喜代子に尋ねた。
「例えば息子さんが『わからない』と答えたら、木崎さんはどう答えるつもりだったんですか?」
「先生のところに、連れてこようと思ってました。三野原先生なら正太郎も話せるかと思って」
「ああ、それは……」
 今度は三野原が項垂れたが、すぐに切り返してきた。
「おそらく、その気配を感じ取ったから返事するのをやめたんでしょうね」
「やっぱり、病院は早かったでしょうか……」
「早いというか……そもそも、息子さんは受診したくないかもしれませんし」
「病院には、行きたくないと思います」
「だとしたら、なおのこと木崎さんと話したくないですよね」
 身も蓋もない三野原の言葉に、喜代子は言葉を失った。
「気づいているかどうかわかりませんが、木崎さんの頑張りのおかげで、今回わかったこともあるんですよ」
 噛んで含めるように、彼は続けた。
「息子さんは何もかも拒否しているわけではなくて、おやつや食事のような『安心できる話題』なら、受けとってくれる。ただ、病院や外へ出るような話題はまだ難しい」
「…………」
「木崎さん、外に出ることを抜きにしたら、息子さんのことで心配なことはないですか?」
「あります」
「例えば?」
 堰を切ったように、彼女は答えた。
「体調はどうかとか、痩せたり太ったりしてないかとか、お風呂ちゃんと入ってるのかとか、今心細くないかとか、苦しくないかとか、そういう……」
「木崎さん」
 柔らかく三野原は遮る。
「まず、息子さんとその話をしましょう」

 その夜、喜代子は手紙を書いた。

『この間はごめんなさい。正くんが手紙を受けとってくれたのが嬉しくて、気が急いてしまいました。
 でも、私が正くんの顔を見たいのも、話したいのも本当です。
 正くんはうっとうしいと思うかもしれないけれど、正くんが元気がどうかが一番心配です。
 外に出られなくてもいいので、少し話しませんか? 
 話すのが嫌なら、手紙でも構いません。メモでもいいです。
 お母さん、メールも出来るようにもなりました。アドレスを書いておくので、そこに送ってくれてもいいです。
 何かあれば、連絡をください     お母さんより  』

 次の日、正太郎の好物の生姜焼きを作り、手紙を添えた。
 答えを知るのが怖くてようやく夕方外出から帰ってきた喜代子は、おそるおそる台所を覗いた。
 流しには空になった皿と茶碗、ラップだけが残り、手紙は姿を消していた。

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