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木崎喜代子の場合 Ⅷ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた。⑧】

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#8

『一人暮らし 男性 必要なもの』

 帰宅した喜代子がまず始めたのは、彼女がいなくても正太郎が生きていける方法を調べることだった。けれど、これはすぐに壁に突き当たった。家は夫名義の持ち家、ライフラインは整い、家電も揃っている。この環境で必要なものは、正太郎自身の生活能力だということが分かった。

 料理、洗濯、掃除。

 せめて、これらがどのくらい出来るかということが知りたかった。最悪、料理は出来なくてもいい。カップラーメンや電子レンジが使えている現状であれば、惣菜や冷凍食品を使えれば生きていくことは出来るだろう。
 残りは、清潔を保つ項目だ。風呂には週に何度か入っている。時折彼の下着や部屋着が洗濯物に混ざることがあり、喜代子はそれを洗って畳んだ状態で籠に入れ、彼の部屋の前に置くようにしていた。そうすると籠は脱衣所の隅に置かれるようになり、粛々とそのサイクルが繰り返されてきた。
 我知らず、溜め息が出た。
 どうしよう、息子が洗濯機を使えるかどうかがわからない。出来れば毎日、日々の汚れ物を洗うべきだけれど、果たして一人になった正太郎に、それが出来るだろうか。天井を仰ぎ、強く目を瞑る。

「まま、しっこでた」

 閉じた瞼の裏に、正太郎が現れた。あれは2つか、3つ。なかなかオムツの外れない子で、そのことも当時の喜代子をやきもきさせた。同年代のお友達はとっくにトイレは自立しているのに、うちの子は一体いつまでオムツなのだろう。他の子たちとは違う、オムツ特有のもったりしたズボンのシルエットを見て、他のお母さんたちはどう思っていただろう。どうか誰もオムツが外れたか、話題に出しませんように。夫の実家に行く来月までに、何としてでもパンツに出来ますように。そうして祈るように頑張ったけれど、正太郎がオムツを完全に卒業できたのは4歳を目前にした冬だった。

 日中の排尿はトイレで出来るのに、便だけは頑なにトイレに行かなかった。促してトイレに行かせても、気張りやすいように高さを調節した補助台を置いても、なかなか正太郎はトイレで便をしない。
「はい、うーん、うーん」
 力の入りきらない白いお腹を押しながら、何度彼に排便を教えただろう。正太郎は涙ぐみながら、「まま、おなかおさないで、きもちわるい」と言って逃げてしまった。そして、自分でオムツ入れからオムツを取り出してしっかり履いた後、彼の安心できるカーテンの後ろに隠れて排便した。
「でた」
 晴れやかな正太郎の顔と、自分の顔は対照的だっただろう。尻を拭きあげてやりながら、喜代子の頭は忙しかった。
 義母に、幼稚園の先生に、同級生の母たちに、こんな私を知られてはいけない。知られたらきっと憐れまれるから。労りの言葉の裏にあるのは、「憐れみ」だ。それは私が至らないから与えられるもので、正太郎は悪くない。母も言う。
「正ちゃんは、自分のペースがあるんだと思う。それを大事にしてあげないといけない。喜代子、あんたが正ちゃんを守ってあげないといけない」
 母から事あるごとに言われた。
「特に、浩實さんは『正しい』人だから」
 浩實さん。喜代子の夫は、良くも悪くも『正しい』。その価値基準は、「世間一般にどう思われるか」に尽きる。そのために夫は努力をし、良い成績を保ち、良い大学を出て、良い会社に勤めた。そして、言われるままに遠隔地への転勤も受け入れて、今に至る。そんな夫と正太郎の相性は、良いと言いかねた。
 正太郎は、穏やかな子だ。そして優しい。目から鼻へ抜けるタイプではなく、不器用ながら実直に積み上げて力をつけていく子だった。時間はかかるが、その勤勉さを喜代子は好ましく思っていた。
 けれど、夫は彼を「愚直」と評した。「僕の子にしては、才がない」とも言った。正太郎自身に直接言わないという最低限の配慮はなされていても、夫の言動の端々に「おまえは至らない」という気配を感じた。
 それとなく窘めたことはあった。正太郎には正太郎の努力がある。だから、それを認めてあげてほしいと伝えた。
「だったら、君が褒めればいい」
 硬い声で夫は答えた。
「君が褒めたところで、世間は彼奴を認めはしない。自分に対する正しい評価を、知っておくべきだと僕は思う」
「そうじゃないの。父親の貴方に褒めてもらうことで、正太郎が自信を持てるでしょう」
「世間が認めないものを、僕は褒めたりしない」
 夫の頑なさに、さすがに二の句が継げなくなった。そして、そこでもうひとつ悟ったことがあった。
 だから、夫は私のことも認めないのか。
 夫の正しさに照らし合わせれば、はじめから妻子帯同しての転勤となるはずだった。それを喜代子が拒んだ。やっと出来た友だちと、正太郎を引き離すことがどうしても出来なかった。けれど、正太郎を理由にしてしまえば、夫の中で更に彼への評価が下がることも目に見えていた。だから、自分を理由にした。
「子育てをするうえで、母に手伝ってほしいから」
「私が至らなくて、申し訳ありません」
 そういった喜代子を一顧だにせず「そうか」と言ったきり、夫は黙り込んだ。しばらく沈黙が続いた後、「僕の荷物はどうすればいい」と夫は短く問うた。
「……荷解きまで、私が手伝います」
「じゃあ、そのように」
「……有難うございます」
 かくして、夫は単身赴任になった。
 正太郎のために頭を下げることは、ひとつも苦しくなかった。事の顛末を母に話すと、母は夫だけでなく、夫の実家にまで詫びを伝えにいった。そして、その一連が済んだ後、短い言葉で喜代子を労ってくれた。
「よく弁えたね」
 何故だろう。あの時の母の表情を思い出すと今でも苦しくなる。何か自分が間違ったのではないかという気持ちが、顳顬の辺りをジリジリと焦がす。あの時の母は、確かに喜代子を褒めてくれた。でも、その一方で疑念があるのだ。

 お母さん、本当に私にそんなことを言わせたかった?

 もはや訊くことの出来ない問いは、今でも喜代子の心の中に染みのように残っている。けれど、その染みを見つめたからこそ、思い出した気持ちもある。

『正太郎のために頭を下げることは、ひとつも苦しくない』

 しっかりと目を見開き、彼女は再び、スマホに向き直った。

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