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木崎喜代子の場合 Ⅶ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた⑦】

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#7
 三野原は病院で休んでいくことを勧めたが、喜代子がそれを断った。いくら腰が痛んだとしても、もう病院にいたくなかった。ここで誰かに労わられているという事実が、喜代子には耐えがたく感じた。何とか会計を済ませると、タクシーを待つ列に並んだ。
 午後遅い時間ということもあり、彼女の前には高齢の女性がひとり待つだけだった。瀟洒なストールを纏った老婦人は、ぴんと背中を伸ばし乗り場脇のベンチに腰かけていた。その横にへっぴり腰で座り込むのは勇気がいったが、背に腹は代えられなかった。おずおずと腰を下ろすと、ちらりと婦人の視線が動いた。
「少し、かかるらしいわ」
「え」
「タクシー。先ほどから待っているのだけれど、何処も出払っているみたい」
 まさか話しかけられると思っていなかったので、返答に窮した。けれど、婦人は気にした様子もなく話し続けた。
「困るのよ。せっかく病院も終わって、さて何処でお茶しようか買い物しようかと考えていたのに、こんなところで足止めされるのは。こっちは検査で朝から何も食べていないのに、イライラするわ」
「……大変でしたね」
「どこか痛むの?」
「え?」
「歩くのがおつらそうだったから」
 どう答えようか、喜代子はいよいよ言葉に詰まってしまった。その様子に婦人はすぐに問いを引っ込めた。
「ごめんなさい。不躾だったわね」
「いえ、そんな……」
「来年には死んでる年寄りだから、許して頂戴。もういろんなことを我慢することが難しくなっているの」
 続けて、婦人は自身ががんであること、今日の検査結果で治療を終了することにしたことを告げた。
「もうこれ以上やってもつらいばっかりだから、先生に『あとは痛いのと苦しいのだけ取って頂戴』って頼んできたの。今からぱーっと、治療終了の打ち上げよ」
「……お疲れさまでした」
 婦人の背負う病気に対して、どう返事するのが適当かわからなかった。けれど、彼女の闊達とした口調につられて、労いの言葉が出た。
「打ち上げ、何をされるんですか」
「そうね。まずは気に入ってる喫茶店があるから、そこでミックスジュースを飲むわ。食べられそうならワッフルも食べて、映画でも観ようかしら」
「いいですね」
「貴女は? 何処か出かけないの?」
 またしても二の句が継げなくなった喜代子を見て、婦人は少し身体をこちらに向けた。
「完全によけいなお世話だけど、言っておくわ」
 その声音は先程までとは打って変わって、隠せない優しさがあった。
「我慢はしすぎちゃ駄目よ。私みたいなお婆さんになるまで、本当にあっという間だから。貴女が行きたい場所にいって、見たいものをみて。今すぐはそんな時間が許されなくても、誰にだって必要なものなの」
 婦人の後ろから、タクシーが滑り込んでくる。
「わかった? 行きたい場所を選びなさい」
 そう言い置くと、彼女は馬車に乗り込む貴婦人の足取りで去っていった。
ぽっかりと、春半ばの昼下がりに喜代子は取り残された。
 行きたい場所? そんなものはない。いや、あるにはある。でも、それは許されることなのだろうか。
 考えをまとめる間もなく、タクシーが迎えに来てしまった。ふらつく足取りで、清潔なシートに座り込む。
「どちらまで」
 淡々と運転手の声がする。行き先を告げる自分の声が、他人の声のように聞こえた。

 海を見たのは何年ぶりだろう。車でたった30分の場所なのに、この場所へ来るという発想がなかった。もう長らく喜代子の頭の地図には、自宅から徒歩15分のスーパーと電車で何駅か先の医療機関を結ぶ道しか記されていなかった。海へ続く道は変わらずにずっとあったというのに。砂浜へおりるのは少し躊躇われて、ハンカチを広げ石垣に座った。コンビニで買ったミルクティーが指先をほのかに温めていく。
 何処へ行きたいとあの婦人に問われて、思い出したのは祖母の家だった。母方の祖母はこの浜にほど近い、丘の上に住んでいた。旧い一軒家で、喜代子は小学校までの日々を過ごした。喜代子には父がいない。喜代子が産まれてすぐ、海の事故で亡くなったのだと言う。公務員で寡黙な祖父、穏やかでひたすらに優しい祖母がいたおかげで、特に寂しい思いをしたことはなかった。近所に幾人もいた同じ年頃の子どもたちと、浜で遊んで日が暮れた。あの頃の浜は、今のように整備されてはいなかったけれど、喜代子たちには充分な遊び場だった。
 その祖父母の家も、もう人手に渡った。母に聞けばアパートになったのだと言う。
「一度見に行ってみる?」
 かつて母に誘われたことがあった。けれど、もうあの家はないのだと確かめることが、どうしても喜代子には出来なかった。喜代子が幾度となく寝そべった縁側も、猫がよく迷い込んできた庭も、軋む音が怖かった急な階段も、祖母が気に入っていた窓辺も、もう喪われてしまったのだということが本当は耐え難くつらかった。
 だから、この浜に来ることも何となく避けたまま、今日まで来てしまった。
 ああ、くるしいな。
 ペットボトルを握る指に力が籠る。いつからだろう、生きていくのがとても苦しかった。
 子持ちの専業主婦。夫は有名企業の社員。経済的に不自由はない。
「木崎さんって、苦労知らずで羨ましいわ」
 いつだったか、父母会の席で投げかけられた声は、決して言葉通りの響きではなかった。
「そうでもないのよ、夫がずっと東京勤めだから」
 その言葉すらも自慢ととられ、遠ざけられた。せめて正太郎に累が及ばないように気を配りもした。そうして傷つかないようにと育ててきた息子も、2年前から部屋を出られない。
「彼奴は、いつになったら出てくるんだ」
 夫の声が脳裏に響く。そんなことは、喜代子の方が知りたい。ただ正太郎の言葉を信じるなら、「出てこない」のではなく、「出られない」のだという。それを夫に伝えもしたが、夫は深く溜息を吐いただけでそれ以上何も言わなかった。
「どうするつもりなんだ」
 家の中で何か起こった時、夫はいつもそう問いかけてくる。夫自身が「どうしたいか」でもなければ、家族として「どうしようか」でもない。喜代子や、正太郎が「この問題をどう解決するつもりか」という、それだけの問いだ。そのことがおかしいと喜代子は思うけれど、それを伝えたところで、もはや夫が変わるとも思えなかった。
 腰は今も重く痛い。どうすればいいのか、今日医者に何を言われたかも思い出せない。ひたすらに生きているのが面倒な気持ちだけが背中に圧し掛かってくる。
『自分がいなくなった方が、周りの者は楽になると思う』
 診察の時、質問紙にあった言葉だ。あの時、即座に否定する答えを出した。自分がいなければ、正太郎はきっと困るだろう。日々の食事や洗濯が、今の彼には出来ないだろうから、だから喜代子自身が「いなくなろう」だなんて考えたこともなかった。
 でも、例えば。
 喜代子の母がそうだったように、ある日突然自分がいなくなったら。
 正太郎は『出て来ざるを得なくなる』のではないか。
 喜代子がいるから、彼はずっと今もあの部屋にいるのかもしれない。喜代子が食事を運ぶから、彼はいつまでも仕事に行くこともなくあの場にとどまることが出来ている。もしかすると、『正太郎のため』だと自分のしてきたことは何ひとつ意味がなかったのかもしれない。
 ああ、だとすれば。
 すっと視界が晴れた気がした。今までの背中の重みが嘘のように軽い。明日から自分が何をすればいいか、喜代子にもようやくわかった気がした。
 ひとまず、家に帰ろう。
 気づけば、辺りは薄暮に沈んでいた。

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