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木崎喜代子の場合 Ⅵ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた。⑥】

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# 6回目

 行きたくない。
 待合室で帰りたくなったことはあったが、そもそも病院に行きたくない。どうしてあんなことになってしまったのか、今となっては思い出せない。あの日から、夜中に恥ずかしさで叫びだしそうになる。診察中に急に怒りだし、泣き出した私を三野原はどう思っただろう。
 情緒不安定な患者? そう思われても仕方がないくらいみっともない振舞いをした自覚がある。
 だから、行きたくない。また取り乱したら、立ち直れそうになかった。幸い腰は、先週よりは少しマシになった。このまま様子をみておけばいいんじゃないだろうか。予約はキャンセルして、しばらく考えればいい。
 でも薬は? せっかく良くなってきたのに、薬を止めてしまって大丈夫なんだろうか? 薬だけでも近所でもらう? 何科にいってどう説明したら同じ薬が手に入るのか、喜代子にはさっぱりわからなかった。
 とにかく行かないで済む理由を考えあぐねて、けれど途中からそんな自分が嫌になってきた。
「大事な話だから、ちゃんと時間をとりましょう」
 帰り間際、三野原の言葉を思い出す。あれだけ医者への不満を口にしておきながら、いざ向き合ってくれた医者からは逃げ出すというのは、やはり道理が通らない。それ以前に、私は改めて失礼を詫びるべきなのではないだろうか。
 受診を止めるにしても、謝ってからにしよう。そう結論づけて、ようやく喜代子は重い腰をあげた。

「木崎さん、こんにちは」
 さすがというか何というか、三野原はまったくいつも通りに喜代子を迎え入れた。
「先生、先日は失礼しました」
 喜代子としては、これを言わないと始まらないし終われなかった。席につくや否や、三野原に頭を下げた。
「あんなに泣いたりして……挙げ句、先生のお時間まで頂戴することになって、申し訳なかったです」
「いえ、あれから痛みはいかがですか?」
「ええ、あの頃からは少しマシになっています」
 喜代子の謝罪には深入りせず、三野原は問診に移っていった。そのことに安堵とほんの少しの落胆を感じながら、彼の言葉を待った。
「前回、木崎さんから『治る』のイメージの話が出ました。その時、木崎さんは『痛みが0になること』だと仰った。その後、今までの治療の中でおつらかったことの話題が出たと思います」
「はい、お医者さんを悪く言うようなことを言って、本当に申し訳なく思っています」
「木崎さん」
 話を区切るように、三野原は喜代子の名前を呼んだ。
「僕は、木崎さんを責めるつもりはありません。今までの医者との間で、不快な思いをされたことも否定しません。でも、今はどうすれば木崎さんのつらさを減らせるか、一緒に考える時間です」
「…………はい」
「木崎さんの腰が痛み始めてから10年です。それをいきなり『0』にすることは、難しいと思っています。でも、木崎さんが少しでも楽になる時間があるのなら、その時間を長く保つことを考えたい」
 痛みが軽くなったり、痛みを忘れられる時間はありますか。彼は改めて喜代子に問うた。

 昔から本が好きだった。穏やかな日常の中に起こる小さな冒険や淡い恋、読み終わった後に少し心が温まるような作品が特に好きで、学生時代は図書館に座り込んでは日が暮れるまで読み耽った。本を閉じてもまだ作品の世界にいるような心地で、きっと私はこんな風にささやかな日々を送っていくのだと信じていた。
 実際、夫と結婚して正太郎が生まれ、近居の母に助けられながら家事育児に勤しむ日々は単調だけれども幸せな時間だった。
 あの悪夢のような冬は、母の死から始まった。
「お友達と温泉に行ってくるから」
 社交家だった母は、たびたび友人たちと小旅行に出かけていた。
「朝早くにバスに乗るから、これ持って早く帰ってちょうだい」
 言葉のそっけなさとは裏腹にたっぷりと筑前煮を鉢に盛り、母は冷めないうちにと喜代子を送り出した。
 それが、生きた母を見た最後になった。
 待ち合わせに現れなかった母を心配した友人から、喜代子に連絡がついたのは昼過ぎで、慌てて駆け込んだ部屋の中で母は布団を被ったまま、もう息をしていなかった。
 あれから数日、記憶が曖昧だ。ただ母を見送った日から腰が痛みだしたことだけは確かだ。痛む腰のまま参列者に礼を繰り返し、葬儀が終わる頃にはどうしてこんなつらいことが重なるのかと座り込む始末だった。

 その年明け、夫の異動が決まった。「準備してくれ」と言ったきり夫自身はほぼ何も手を出さず、結局喜代子が引っ越し荷物をまとめた。それと同時進行で、正太郎の受験がはじまった。本命は2月の県立で、1月の私立は手堅い学校を選んだはずだった。それがまさかの不合格で、そこから彼の気持ちを立て直すためにどれだけ苦労したかを、夫は知ろうともしなかった。既に赴任先に引っ越していた夫は、合格を知らせた電話に「そうか」と短く応えた後、珍しく「正太郎と替わってくれ」と言った。
「正太郎、お父さんが話をしたいって」
 あまり感情を表に出すタイプではない息子も、さすがに嬉しさを隠しきれない様子で受話器を受けとった。夫が何を言ったかはわからない。ただ、通話が終わる頃には正太郎の気持ちはすっかり萎み、そのまま部屋に戻っていった。
 彼の寂しそうな背中を、今でも喜代子は思い出す。あの時、自分は何か声を掛けられたのではないか。そんな後悔とともに暗い階段を上る息子の背中を頭の中で幾度も見送ってきた。
 それでも、高校を卒業し、希望していた私大に入るまでは喜代子の腰は痛むことはあっても、生活を損ねるまでには至らなかった。

「3、4年ほど前までは、痛みましたが普通に暮らせていました。何故かはわかりません……私がまだ若かったからだと思います」
「その時、お家のことは木崎さん一人でされていたんですか」
「ええ。高校に入る前から夫は家にいません。でも、息子は穏やかな子なので私ひとりでも特に困りませんでした。むしろ、家のことを手伝ってくれたり、有難かったんです」
 問われるまま、話し出す。何処か懐かしむように話す自分の声に、危機感は感じていた。それでも止められなかった。
だって、正太郎の話をしてしまったら。
「そうですか。息子さんは、今でも家事を手伝ってくださるんですか」
 三野原の問いに、息を呑んだ。
「……いえ、あの子も働きはじめたら、そうはいかなくなってしまって」
 一拍を置いて、嘘ではない、真実でもない言葉が唇から転がり出る。血の気が引くのが、自分でもわかった。
「だとしたら、木崎さんの生活パターンが変わったのもこの時期だということですね」
 身構えしたものの、それ以上三野原の追撃は来なかった。けれど、これ以上何を聞かれるのも怖ろしかった。途端に、腰が突き刺されたように痛み出した。
「せ、先生……すみません、腰が痛いです……!!」
「あぁ……どうしましょう。少し休まれますか? それとももう、話すのがつらければ」
「次の診察にお願いします」
「わかりました。次は……申し訳ない、外来が混みあっていって3週間後になりますが」
「それで結構です」
 脂汗が滲むのを感じながら、かろうじて喜代子はそう答えた。
「痛んでいるところ申し訳ないんですが、木崎さん。今度来るまでに考えてきて欲しいんです」

『こうしているときは少しでも楽だという時間や場面があれば、教えてください』

 三野原の声は喜代子の耳には届いたけれど、何故だろう、胸にまでは落ちなかった。

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