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ハウスとホーム、信頼と愛着

信頼している友人がこの「ハウス」の話を聞いて

「家」の持つ機能的な面(House)に比重があることはよくわかったのだけど、「我が家」や「故郷」なんて意味も内包する、懐かしむもの、ホッとできるものとしてのHomeについてどう考えているの?

と返してくれた。

これについて考えてみたところ「ほかならぬ自分以外には認められないかもしれない『よさ=アカミミ的なもの』が守られている」いう安心感こそが、僕にとってのHomeの感覚なのではないかと思い至ったのだけど、これについては前回書いたものを読んでみてほしい。

その時友人にした応答はこうだった。

House的機能については定量化できるから、他人に対してでも最初からある程度の保証ができる。けれどもHome的な感覚って愛着みたいなもので、愛着って育てていくものであって無条件にプリセットであるものではないと思ってる。

このあともHouseとHomeのちがいについて考え続けていて、Home的な感覚についての解像度はすこし高まりはしたけれど、Home的な感覚は育てていくものだというこの考え自体は変わっていない。だからこそこのマガジンを 「家を育てたい」 という題から書き始めたのだ。

Home的な感覚は育てていくものだとして、それはどのように育っていくのだろうか。今回はそういうことを考えたい。

僕は自分の生まれ育った家族に対してHome的な感覚を持っているが、これはやはり前述の「ほかならぬ自分以外には認められないかもしれない『よさ=アカミミ的なもの』が守られている」いう安心感がそこにあったからだと思う。この安心感のことを信頼と言い換えてもいいかもしれない。ここにいる人たちは自分の「ある」や「いる」を脅かさないという信頼。自分はリスペクトされているという信頼。僕はリスペクトとは単なる「尊敬」ではなく、英英辞典における「the belief that something or someone is important and should not be harmed, treated rudely 」みたいなニュアンスをもって使っている。何ものであれ傷つけられたり雑に扱われるなんてことはあってはならない、そういう信念がリスペクトだ。

健全な関係には相互に与え合う信頼が必要不可欠なんじゃないか。
たとえば僕の両親は僕が読んでいる本だとか、やっていることだとかに対して、「ええ、そんなの読んでるの?」「これはさすがにどうなの?」といった容赦のない意見を平気で口にする。これは親と子という関係の非対称性を考えれば抑圧にだってなりうる。
しかし僕と両親のあいだには「この人たちは僕の行動に対してやいのやいの言ってくることはあっても、親子という非対称な関係を利用して行動を止めるということはしない」という信頼関係が醸成されていた。だからこそ両親は平気で辛辣な批評を僕に送ってきたし、僕もそれを気にしたり受け流したりしながら考えるままに振舞ってこれたように感じる。

両親は僕のやることなすことを止めようと思えば止められた。それでも行動の可能性を潰すような実力行使に出ることは決してしなかった。それは我が子に対して「自分の思い通りにしてはいけない、自律して考え行動する他人」として大きなリスペクトを払って僕に接してくれていたということだ。自分の存在に対して最大限のリスペクトが払われている、そう信じられたからこそ僕は、ときに両親からの評価をある程度毀損してでも自分のやりたいことをやりたいようにできた。言い換えてみれば、僕は僕の「ある」「いる」のレベルが強い肯定(=存在に対する最大限のリスペクト)に支えられていたからこそ、「する」への評価に対してはある程度無頓着でいられたということかもしれない。
そもそも「私はあなたのその行動には賛成できない」と否定的な評価を表明することだって、言語化して伝えればわかるだろう、納得できなければそれでもやるだろうという信頼があるからこそできることなはずだ。この人は自分の「する」への評価を根拠として「ある」や「いる」を脅かさないだろうという信頼、相互に存在への大きなリスペクトが払われているという信頼があってはじめて、「する」に対する批評も可能になる。

このように自他の存在に対して払われる最大限のリスペクトのことを、もしかしたら「愛」だとか呼ぶのではないか。あんまりこの言葉は使いたくないので、僕は愛着と呼びたいのだけど。
愛着は、他人と共創した信頼関係があってはじめてすくすく育っていくものなのだ、そういえないだろうか。
とりあえず、僕は僕の両親との日々を振り返ってこのように考えている。

大人になって、家の外にどんどん出かけるようになる。そうしていろんな人の家族の話を聞いていくうちにこのように考えられることがどれだけありがたいことだったか気がついてハッとする。信頼関係どころかあいまいな「愛」を脅迫の道具に使うような事例を聞くとあまりの憤りでどうにかなりそうになる。いうことを聞けないならお前に対しての「愛」が毀損するぞ、というような脅迫。なんでそんなことができるんだろう。これだから「愛」って言いたくないんだ。そんなふうにどんどん悲しくなってくる。
僕は僕の振る舞いによって両親の「愛」が毀損するなんてこと、考えたこともなかった。僕の「する」への評価は、僕の「ある」「いる」への肯定とは別の次元の話だったからだ。「自律して考え行動する他人」として「ある」「いる」がリスペクトされていたからこそ、「する」の話を安心してできた。そうやって言葉を交わしていくことで、またいい感じの信頼関係を共創していけた。このいい感じの信頼関係を、僕は愛着と呼ぶみたいだった。

存在の肯定と、行動への評価は、別々であっていいのだ。
ただそこに生まれついた、長く一緒にいるから、そうした理由でついつい抱いてしまう執着を「愛」と呼ぶ向きもあるのかもしれないが、僕はそんなの愛じゃないと言いたい。信頼に先立った愛着などない。あるとしたらそれは愛着と錯誤された執着だろう。

僕にとっては順番なのだ。信頼があってはじめて愛着が育ちうるように、安心していられる「ハウス」なくして、お互いを信頼し助け合う「ホーム」の可能性もない。だから僕はまず安心して「いられる」仕組みを備えた場所を作りたいのだと思う。

では、お互いに「自分の思い通りにしてはいけない、自律して考え行動する他人」として大きなリスペクトを払い合いながら、共になんとかやっていくために必要な「ハウス」の仕組みや機能とは、どんなものだろうか。

2019.07.18 第一回改稿