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アカミミハウス

なんの価値も見出せそうもないものを愛でるためのユニットをつくろう。そうやって、最初からよくわからないものとして「零貨店アカミミ」というのを夫婦で始めた。
特に活動実績はないので、なにを始めたんだといわれても困る。「アカミミ」とはアティチュードなのだ。アカミミ的態度で生きることが肝要でそういう意味では毎日が活動なのだ。そのくらいのものとして僕らは「アカミミ」という活動を始めたし、いまも続けている。
そして今、みんなで支えあって一生ごきげんに暮らしていくための仕組みと場所=「家」を作ろうと日々やりくりしている。この「家」を「アカミミハウス」という仮称で呼んでいるのは、ちゃんとした意味がある。以下、混乱を避けるために「家」については基本的に「ハウス」と表記する。

なんとなくこの「ハウス」のことをシェアハウスだとかコレクティブハウスだとか言い切りたくないという気持ちがある。それらの言葉はわかりやすいがたとえばコミュニティというものをどうしたって想起させる。コミュニティいいじゃん、いまっぽいバズワードじゃん、という声も聞こえてくるけれど、僕はどうしてもこの言葉にムラ的な「共同体」を想起してしまう。地方都市のムラ社会において、拳ですべてを解決してしまいそうなヤンキーたちに日々ビクビクしながらひっそりと暮らした悔しさが清算しきれていない僕のような人間にとって、コミュニティという言葉や、そこにどうしてもつきまとう「絆」「つながり」みたいなものに対してどうしてもウエエッという気持ちになってしまうのだ。

できたら、そうじゃないやり方で他人と一緒になんとかやってくことはできないか。共同体でも組織でももちろん国でもないあり方。これまでそうしたスキマ需要を引き受けてきたのはたとえば家族だろう。家族というものは、しかしまたやっかいなもので、この言葉にまとわりついた呪いも膨大なバリエーションと強靭さを持っている。

しかし、ここならまだ手を出せる気がする。なぜならそこにあるのはまだ抽象的な概念に先立った具体的な個人たちだからだ。具体的な人間関係を前に理念は無力だ。僕はこれを絶望だと思って抱えてきたが、むしろここにこそ希望がありうるんじゃないかと考え直している。そもそも家族だって、血縁関係があったりなかったりするだけで偶然寄り集まった他人同士だ。それであれば自分たちで気の合う人たちを選び合って、居心地のいい「ハウス」を一緒に作っていこうというのだって、そんなにおかしな話じゃないはずだ。むしろいい話なはずだ。そうやってアントレプレナー精神で「ハウス」を作る。ベンチャー「ハウス」。そこで暮らしを協業するメンバーのことを「家族」と呼んでいいものか、ここにはためらいがあるのでもう少し考えたい。
僕はいまこれから作っていきたい「ハウス」についてそういうものを想定している。

それこそ家族やムラと同じような閉鎖的な共同体そのものじゃないかという批判もありそうな気がする。それに関しては、そうだと思う。前の記述と矛盾するようだが、僕は家族やムラ社会そのものを否定したい気持ちはなくて、「ハウス」が閉鎖的であることもそこで生活を営む人たちの安心や快適のためには必要だと思っている。そしてこれは「地方都市のムラ社会において、拳ですべてを解決してしまいそうなヤンキーたちに日々ビクビクしながらひっそりと暮らし」ていくことを余儀なくされていた気持ちと全く矛盾しない。たとえば僕の暮らした地方都市も、マイルドヤンキーたちにとっては住み心地のよい魅力的なムラでありうる。それはそれでいいじゃん、と思う。けれどもヤンキーではない僕には、ムラという規模で居心地よく暮らすことは無理だった。だからこそ、声の大きさやノリのよさで人をコントロールしようとしない、居心地のいい人たちを集めてムラというには小さな規模の集まりを、「ハウス」として作り上げたいのだ。

閉じ方が内向きの同調圧力を強化するものにならなければほがらかであれるんじゃないか、そうであればあんまり問題ないな、と楽観しているくらいだ。この楽観が従来の家族やムラといったものに持ちづらいのなら、自分たちでべつの仕方で「ハウス」を作っちゃえばいいんじゃないか、という提案なのだ。
「ハウス」において肝心なのは、てんでばらばらで、決して分かり合うこともない他者同士がただ一つ屋根の下同じ釜の飯を食うという点だけでなんとなく寄り集まっていることだと思っている。「ハウス」というのは、連帯というにはいい加減で、共同体というには心もとなく、コミュニティというには閉鎖的である、そういうあいまいな位置にちゃっかり収まることができるんじゃないか。そのあいまいさにこそ、楽観は宿る。そのはず。

「アカミミ」に立ち返ると、これはそもそもうちで飼っているミシシッピアカミミガメが「指定外来種」として悪者扱いされていることに対するアンサーとして始めた面もある。社会から見てつまはじきにされるもの、役に立たないどころか害ですらあるもの、そのようなレッテルを張られたものであってもなお、うちの亀はかわいい。なんともいえない「よさ」がある。人間のことをたぶん単に動いているものとしてだけ認識していて、だから飼い主への愛着どころかそもそも人間を個体ごとに見分けることすらできていないであろう生物が、それでもなんだか「よい」。家の中でただ生きているということ自体が持つ「よさ」を、僕たちは家の外でのこの生き物の評価よりも優先したい。そういう態度を僕はアカミミ的態度と名付けた。家とは、そういう態度でいられるところなのだ。僕がなるべく「家=ハウス」からコミュニティだとかそういう社会性を帯びた言葉を締め出したいと考える理由は、ただこの一点に集約される。ほかならぬ自分以外には認められないかもしれない「よさ=アカミミ的なもの」を守るためにこそ、「家=ハウス」はあってほしい。

このような考えから、僕は「家」のことを「アカミミハウス」と名付けた。

2019.07.18 第一回改稿